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2024/06/04

第二回 私が落語家になったワケ<桂三ノ助インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第二回は桂三ノ助さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!

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「喜楽館とともに成長したい」(桂三ノ助さんのインタビュー)

 

芸名 桂三ノ助(かつらさんのすけ)
本名 小池 直樹
生年月日 1971年 (昭和46)年 1月21日
出身地 兵庫県
入門年月日 1995年(平成7年)10月、師匠「六代桂文枝」

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学生時代は野球とお笑い

お笑いに目覚めたのは中学時代。神戸市垂水区の若松塾に通っていた。この塾は、「よく学び、よく遊べ」が方針で個性のある名物先生がいた。面白いことがあれば披露する機会が与えられて、皆の前で一発ギャグ的なパフォーマンスでよく笑ってもらった。うどんを食べる仕草をまねるなど、今から見れば他愛のないものだが、当時の私にとってはインパクトのある体験だった。

ただ小学校から高校までは野球が中心だった。滝川高校野球部と言えば、年配の人は、巨人で活躍した別所毅彦や青田昇を輩出した甲子園常連校のイメージがあるかもしれない。私が通っていた頃はさほど強くはなかった。それでも毎日練習漬けで、休日もクラブ活動中心。学園祭にも参加したことがなかった。私はレギュラーではなく三塁のコーチャーボックスに入ることもあった。それを落語のネタにすることもある。高校卒業時には、本格的に野球を続ける気持ちはなかった。

神戸学院大学に入学すると、すぐに落語研究会に入部した。3年生の時は部長を務めた。当時は、繁昌亭(2006年開館)や喜楽館(2018年開館)もなく、キャンパスも神戸市西区だったので、大阪の落語会に行くこともほとんどなかった。また現在のような学生落語選手権などの大会もなく、学園祭で落語を披露したり、学内で寄席を企画したりしていた。当時は、もっぱら桂米朝、桂枝雀、桂三枝(六代文枝、以後「桂文枝」と表記)の各師匠のビデオテープやCDで落語を学ぶことが中心だった。

桂三若さんからの電話

卒業時には落語家になりたい気持ちはあったが、その道筋も手立ても分からなかった。1995年の卒業時はバブルが崩壊して就職氷河期の真っただ中。地元神戸のガソリンスタンドに就職し働き始めた。

しばらくして桂三若さんから電話が入った。彼は大学の落研の1年先輩で桂文枝師匠に入門していた。学生時代に「噺家になれたらいいなぁ」などと一緒に話していた仲だった。彼は、「今だったら、文枝師匠が弟子をとるかもしれない」と電話で連絡してきてくれた。漠然とした思いが現実になるかもしれないと気持ちが高まった。

その時に頭に浮かんだのは阪神・淡路大震災。大学卒業年の1995年1月17日は、年度末テストの初日だった。試験はすべてレポートに振り替わった。成績が悪かったので、もし震災がなければ、まだ大学生のままだったかもしれない。

また実家のあった神戸市垂水区は、震源地にも近かったので揺れも半端ではなかった。自宅の建物は大丈夫だったが、周囲の景色は一変して、水やガスなどのライフラインもしばらく途切れたまま。震災による死亡者数を伝えるマスコミ報道はしばらく続いていた。いつ何が起こるかは分からない。「今やりたいことをやっておかないと後悔する」という感情が三若さんの電話によって蘇ってきた。

両親と一緒に文枝師匠と面談

三若さんに指定された旧朝日放送社屋の楽屋口で待っていた。テレビ番組「ナイトinナイト」の収録が終わって文枝師匠が出てきた。ガチガチに緊張して「弟子にしてください」と頭を下げると、「よし、メシ行こうか」と言われてびっくりした。三若さんから話が通っていたのだろう。

周りにはマネージャーや弟子、運転手など取り巻きが10人ほどいた。近くの中華料理店『珉珉』で皆と一緒に食事をした。緊張状態が続いていたからか、その時のメンバーは誰も思い出せない。「餃子30人前!」と注文する声が記憶に残っているだけだ。

それから1週間して両親と一緒に文枝師匠との面談になった。自分は一人っ子なので、両親から「やめとけ」と言われるかと思ったが、父親は「好きなことをやったらいいじゃないか」という反応だった。母親も特に反対はしなかった。師匠からは、3年間の内弟子期間は面倒を見るが、その後は独り立ちになる。食えないこともある厳しい世界だ、という趣旨の話もあった。それを聞いても会社を辞めて落語家になる決断が揺らぐことはなかった。

話が終わった後に、母親が文枝師匠に両手で握手を求めた時は、少し恥ずかしかった。入門する息子の師匠というよりも、スターと話している気分だったのかもしれない。両親が反対しなかった理由はそこにもあったのだろう。当時の師匠はテレビ番組のMCやレギュラーをもっていて、ほぼ毎日テレビに出ていた。

大学を卒業した半年後の1995年10月に文枝師匠に正式に弟子入りした。24歳だった。

初めの半年間は神戸の自宅からの通いだったが、その後は池田市内の師匠の家の近くにアパートを借りてもらった。師匠は落語会よりもテレビ局への車の移動が多かった。弟子兼運転手として、局内では、メイクさんの手配とか、こまごまとした対応も必要で結構忙しかった。部屋にて一対一で稽古を付けてもらうこともあったが、移動中の車内で落語の指導を受けることも多かった。

三若さんからの電話がなければ、落語家になれていなかっただろう。入門してみると、三若さんの次の弟子の三金さんは運転免許を持っていなかった。三若さんは自分の代わりに運転ができる弟子を探そうとして私に声をかけたのかもしれない。いずれにしても落語家になるにあたっての恩人であることは間違いない。

喜楽館の館長補佐に就任
喜楽館(神戸市兵庫区新開地)設立のきっかけは2014年の正月に、当時上方落語協会長だった桂文枝師匠の「神戸あたりにも上方落語の定席を」というひと言だった。私も上方落語協会の建設委員のメンバーとして立ち上げに関わった。設立に向けてさまざまな困難や苦労もあったが、2018年7月に開館を迎えた。

当時は支配人が不在だったので、喜楽館の運営を支える落語家が必要ということで館長補佐に就いた。文枝師匠が名誉館長で、20年前から喜楽館からほど近い場所に住んでいることもあって、お役に立てるならと引き受けた。現在は、落語の高座にあがりながら館長補佐の仕事にも取り組んでいる。これからも「喜楽館とともに成長したい」と考えている。

(5/22 神戸新開地の喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

会社員から異なる職業に転身した人たちの取材をしていると、次のステップに進むには、目標になる「師匠」と、転身の実現を手助けする「メンター」が必要です。自分の能力やスキルを高めるだけでは転身できません。桂三若さんはまさにメンターだったのでしょう。また本人に転身への渇望感がないと師匠やメンターが現れないことも興味ある点です。阪神・淡路大震災での体験が三ノ助さんを後押ししたのではないかと思いながらお話を聞いていました。

三ノ助さんのお母さんが、文枝師匠に握手を求めた気持ちはよく理解できます。私の中学時代には、深夜ラジオ『歌え! MBSヤングタウン』から聞こえてくる文枝師匠の声を一言も逃すまいと聞いていました。当時の若者のスターだったのです。私も中学で学級委員をしていた時は、ヤングタウンで聞いたクイズをもじってクラスメートの前で披露していました。三ノ助さんと同様なことをしていたのです。

個人的なことになりますが、私は喜楽館のある神戸新開地界隈で生まれて育ちました。今年70歳になりますが、小さい頃によく通った「演芸の神戸松竹座」も、アイススケート場や映画館も併設していた聚楽館ももうありません。この喜楽館は私にとっては最後の砦なのです。

ぜひ三ノ助さんには、喜楽館のさらなる発展に向けて是非とも力添えください。少なくても私の寿命が尽きるまでは頑張っていただかなければなりません。「期待してまっせ~」。

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

 

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