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2024/05/17

第一回 私が落語家になったワケ<桂雪鹿インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第一回は桂雪鹿さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!

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「小学校教師から落語家へ」(桂雪鹿さんインタビュー)

 

芸名 桂 雪鹿(かつら ゆきしか)
本名 古谷剛
生年月日 1990年5月4日
出身地 大阪府阪南市
入門年月日 2018年3月30日、師匠「桂文鹿」

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教師になると決意した教育実習

2024年4月25日の喜楽館の高座で、桂雪鹿さんが、「小学校の先生から落語家になりましてね」と話すと、「えっ~」と軽く驚いた空気が客席に流れた。

昔から漫才や落語が好きで、全国高等学校お笑い選手権『M-1甲子園』の地方大会で優勝したこともある。芸人になりたい気持ちもあったが、AO入試で関西学院大学の教育学部に入学した。当時は教師になろうという強い気持ちはなかったが、3回生秋の教育実習で変化が起こった。

1か月弱の最終日には、大学の先生も小学校に来て実習の評価が行われる。授業では質問を生徒に投げかけると、全員が手を挙げて驚くほど積極的に参加してくれた。

後に知ったのだが、担任の先生から「今日の授業がうまくいったら、古谷(雪鹿さんの本名)先生はホンマの先生になれる」と言われて、2年生のクラスのみんなが一生懸命に協力してくれた。

お別れの会も生徒たちが準備してくれて、最後に「古谷先生、ありがとう!」という手紙を受け取った時に大号泣した。「いい先生になるから」と生徒と涙の約束をした。それ以降は、芸人や企業に就職することは考えずに教師になると決めた。高校から漫才コンビを組んでいた相方とも別れることになった。

落語に魅力を感じる

大阪府阪南市で2013年から小学校教員になるが、初年度から2年生の学級担任になった。初めは何をして良いのか分からなくて、同じ学年の3人の先生に助けられて対応していた。子ども相手に授業をするのは楽しいが、毎日仕事に追われて遅くまで学校に残っていた。授業の事前準備や行事で休日も学校に行く生活だった。

一方で、忘年会や打ち上げでは、漫才やコントをして先生方には笑ってもらった。子どもたちも喜んでくれるので、こういう持ち味のある先生も悪くないかと思っていた。

その後、落語クラブのある小学校に移った。指導している女性教師はアマチュア落語家で、子どもたちにも落語を教えている地元では有名な人だった。

彼女から「一緒に落語しよう」と誘われて、桂枝曾丸師匠のワークショップに参加した。桂枝曾丸師匠の独演会にゲストで来ていたのが桂文鹿師匠だった。

文鹿師匠は、ふてぶてしい感じの歩き方で登場してボソボソと話し始めた。この人は本当に落語家なのかと思っていると、いきなり「みなさん、ケンタッキーフライドチキンのお得な買い方知っている?」と語り始めて、新作落語「さわやか回転すし」で爆笑を取った。

今までの落語に対する自分の枠組みが外れて、もっと自由に演じて良い芸なんだと思い直した。以後は、文鹿師匠の落語会に通い続けるとともに、ワークショップの卒業生仲間と一緒に落語に取り組んだ。

落語に対する興味が一時的な感情ではないかと考えて、お芝居や吉本興業の劇場などにも足を運んだ。他の舞台芸術に比べて、寄席は気取らない落ち着いた芸であることも魅力だった。やはり一番心が動くものは落語だと確信した。

最終的には文鹿師匠のまとう空気感に惹かれて、この人のそばで学びたいと考えるに至った。

文鹿師匠へ弟子入りを申し出る

2017年3月に文鹿師匠に初めて出会って、その年の12月に新世界にある動楽亭の終演後に弟子入りを申し出た。あまりの緊張でその日の高座の噺は耳に入って来なかった。

出待ちをして、「文鹿さんの元で落語を勉強したい」と話すと、落語ファンに対するにこやかな師匠の表情がガラッと変わった。仕事は何をしているのかと問われて、小学校の教師と答えると、「先生の方がいいんと違う。確実に収入は下がるよ。小学校は辞めることはできるのか?」といったやりとりがあって、「結局、この世界はセンスやから、君が試してみたければやってみたらいいんじゃないの」とその場でOKが出た。

その理由は、兄弟子の白鹿は9カ月弟子入りを断られ続けた。その間、何度も何度も落語会の終演後に現れて、ストーカーみたいに頼まれ続けたことに凝りて、私の場合はすぐに決めてくれた。

この前日に先生仲間で飲んでいた時に、落語家になりたいことを話すと、「やめとけよ。素人落語もできて先生もやれているからええやん」「君はもう27歳やろ。そらアカンて」という反応が返ってきた。一瞬、弟子入りしなくても楽しい人生を過ごせるかもしれないと思った。ところが、休日は何をしているのかという話になって、「体育研修で学んでいる」「算数部会に参加した」などの発言を聞いて、彼らは「授業力の向上」のために学んでいる。私が目指しているのは「笑いをとること」なんだ。彼らと自分では価値基準が全く異なることが分かって決意は固まった。

親には弟子入りが決まってから事後報告した。母親は、大変驚いて「教師はいい仕事やと思うよ」と残念そうだった。母親も落語好きなので、打ち上げで酒を飲む機会が多いことを落語会でよく聞くので身体が心配だと話していた。父親は、祖父の会社を継ぐことでやりたいことができなかったから、「お前は好きなことをやればいい」と言ってくれた。

独身だったので、実家から通うなどの収入に応じた生活をしていけば何とかなる。また各地の落語会に通う中で、客席に笑いを届けることによって生活している人たちがいる。自分も努力すればその中に入れるのではないか。落語家は可能性のある仕事ではないかと思い始めていた。

古典落語と新作落語の二刀流を目指す

入門後は、半年間師匠の家で、住み込み弟子になった。一門によっても違うが、最近は、住み込みの弟子は少なくて師匠の家に入ったこともない落語家もいる。落語の稽古を付けてもらっても受講料を払うわけでもなく、食事も一緒にとる、寝る場所も確保できている、師匠について行くと、手伝い賃や交通費もいただける。自分が財布を触ることはほとんどなかった。修業中はコミュニケーション力をつけるために関西空港で接客のバイトをしていた。

入門から2年後の2020年2月末に年季明けになったが、その数日後に緊急事態宣言がでた。独り立ちした瞬間に3か月間のステイホームになった。人と会えなくなってネットで日々のアレコレを発信する「雪鹿ラジオ」を始めた。

落語家は、時間的に自由であるだけに流されてしまう恐れがある。そういう意味では、小学校の宿題はうまくできている。それをやればOKという線がある。学校の教師も日々の授業や行事をこなしていけば一応の実績になる。落語家の場合には、自分でカリキュラムや締め切りを作って、自らを律する必要があると感じている。

将来は、古典落語と新作落語のどちらもできる二刀流を目指したい。基礎的な笑いのパターンは古典落語の中に多くあるので、まずは古典落語を稽古して噺を身体の中にたたきこむ。それを糧に、古典にも新作にも自分の血が通った言葉を紡げるようにしたい。

(4/22 神戸新開地の喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

雪鹿さんに話を伺った翌週に、神戸湊川神社の「神能殿寄席」で桂文鹿師匠の高座を初めて聞きました。新作落語をつくるためにインドに長期間滞在して帰ってきたばかりのタイミングでした。雪鹿さんが、師匠の落語に触れて、「落語はもっと自由に演じて良い芸だ」と感じたことが追体験できました。師匠も雪鹿さんも「空気感」という同じ言葉が自然と口をついて出たので興味深く感じました。

また雪鹿さんが、師匠を語る場面は全てモノマネだったことにも気づきました。1週間前に耳にした声や話し方が蘇ってきたのです。子どもの頃から先生のモノマネも自然とできて、噺家であれば100人程度は可能だそうです。個人的には、この芸も育ててほしいと思いました。

雪鹿さんは、「寄席は気取らない落ち着いた芸」であると話していました。演者にも年季が求められるのでしょう。桂米朝師匠は、「落語家は55歳から65、6歳までが一番良い時」と書かれています。

まだまだ時間はあります。5年間の教員経験も一つの糧として、二刀流の落語家として大きくなってください。「期待してまっせ~」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
著書に、25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

 

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