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2024/07/22

第五回 「これから落語家で独り立ち」<笑福亭 喬明インタビュー>


執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第五回は笑福亭喬明さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!

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「これから落語家で独り立ち」(笑福亭喬明のインタビュー)

 

芸名 笑福亭喬明(しょうふくていきょうめい)
本名 木本 萌 (きもと もえ)
生年月日 2000年 8月4日
出身地 大阪府
入門年月日 2021年3月20日 師匠「笑福亭喬介」

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落語との出会い

落語に出会ったきっかけは、小学5年生の時の「学校寄席」です。後の師匠になる笑福亭喬介師匠と桂ちょうば師匠が来てくれました。校長先生が落語好きで催されたのです。喬介師匠の『動物園』、ちょうば師匠の『時うどん』を聴いたときに、「こんな面白いものがあるんだ」と引き込まれました。

終わった後で、校長先生が「落語をやりたい人はいるか?」と呼びかけた時に、一番に手を挙げました。当時の私は非常に内気で引っ込み思案でした。手を洗う場面ではいつも友達に先を譲るし、学校参観日が特に嫌いで、絶対に発表などはしない子どもでした。

4人ずつが2組になってリレー落語を地域の人の前で発表することになりました。喬介師匠は小学校に何度か来て指導もしてくれました。

当日は、多くの人が講堂に集まって、席はほとんどうまっています。私のチームは「初天神」を披露しました。そのあとで喬介師匠が落語を一席、トリは桂あやめ師匠でした。「女性もなれるんや。私もやっていきたい」と校長先生に言うと、讀賣新聞が取材に来てくれました。落語に取り組んでいる小学校があるという記事の中で、「将来落語家になるかもしれない女の子」と紹介されました。両親や親せきも記事を読んで喜んでくれました。

就職を控えて落語を思い出す

中学生になって、部活は、演劇と華道と茶道の3つを掛け持ちしました。将来のことは何も考えず、落語もたまに聴く程度でした。高校2年生からは写真を初めました。撮るのが楽しくて、卒業後は、友人と一緒に大阪市内の写真専門学校に進みました。1年生の時は自分の好きな写真を撮ることに没頭していましたが、2年生になる頃には、周りの友人たちが就職先を決めていきます。

卒業生のほとんどは、フォトスタジオや写真館でアシスタントとして働き始めます。しかし閉鎖された空間の中で、自分が撮りたい写真に携われるとは限らない。充実して働いている先輩もいましたが、私には魅力的には思えませんでした。家が自営業だったので、組織の中で働くことが実感できなかったのかもしれません。

何が楽しかったのかを振り返ったときに、小学校当時の落語が頭に浮かびました。それからは繁昌亭や各地の落語会にも足を運びました。専門学校を卒業する半年前の2021年秋に繁昌亭でたまたま喬介師匠の姿を見かけました。「あっ、あの小学校の時に落語を教えてくれた人や」と気がつきました。

その時に配布されたチラシを見て喬介師匠が主宰する落語会に行きました。西宮神社で喬介師匠の落語を聴いたときに、「この人や。この人の弟子になろう!」と思いました。小学5年生当時の感情も同時に蘇ってきたのです。

自己流の弟子入り志願

しかし喬介師匠の弟子になりたくても、私は落語研究会に所属していたわけでもなく、落語マニアでもなかったので、どうすれば弟子になれるのかが分かりませんでした。

そこで、とにかく誰彼となく「喬介師匠の弟子になりたい」と言いふらすことにしました。家族や友人だけでなく、銭湯で近所の知らないおばちゃんにも話していました。

すると、友達の母親が勤める会社の人の知り合いに桂三歩師匠がいて、喬介師匠に話をつないでくれたのです。そこから喬介師匠の「一度、落語会で声をかけてください」という私への伝言を受け取りました。

喬介師匠はいつも落語会の最前列にいた私に記憶があったそうです。それまでも師匠に声をかけたかったのですが、他のお客さんと話していたので機会を持てませんでした。

その後、同じ西宮神社での落語会の時に「弟子にしてください」とお願いしました。声に出すときはドキドキしましたが、やっと伝えることができたという満足感がありました。喬介師匠の反応は、「ちょっと待ってくれ」でした。私はどうなるかという不安よりも必ず取ってくれると信じていました。根拠はないのですが、少し大げさに言うと「これはもう運命だ」と感じていたのかもしれません。

弟子入りが決まる!

後日談としてお聞きしましたが、喬介師匠もまだ入門して16年目の40歳手前だったので、大師匠の松喬師匠に相談したそうです。松喬師匠は少し考えられて、「男や女やと言うてる時代やないし、一度見てやったらどないや」と喬介師匠に言ってくださったのです。松喬一門は男ばかりで、いかつい人が多かったので迷われた可能性があります(笑)。

喬介師匠は本音では断るつもりだったかもしれません。芸歴もそれほど長くなく、奥さんも子供もいないので、自分が弟子を育てることができるかという不安もあったと聞いたことがあります。

専門学校の卒業式の翌日、2021年3月20日に笑福亭喬介師匠の元に入門となりました。私が20歳の時です。

母は、日本舞踊の名取だったのですが、途中で芸の道を諦めたこともあって、私が落語家を目指すのを全面的に応援してくれました。父は、あまり賛成ではありませんでした。男社会の中でやっていけるのか心配とだったのでしょう。でも絶対反対ではなくて、「続かんと思うけどな」と言う感じでした。やはり母のバックアップが大きかったのです。

一歩一歩着実に進みたい

2024年5月1日に年季明けになりました。ほぼ3年間の修業期間中は、毎日師匠の自宅まで自転車で通いました。朝早くコンビニでアルバイトしてから行くこともありました。師匠の家の家事全般をしながら、落語のお稽古に励む毎日です。

私は細かい点でよく怒られました。礼儀や落語の大阪弁のイントネーションについて注意を受けたこともあります。また太鼓や笛のお稽古では今も指導を受けています。

落語の演目についても、ほとんど知らずに入門したので、落語自体についても勉強することばかりです。カセットを師匠からいただいて聴いて学ぶこともありました。

周囲の人から、弟子の期間は大変だろうと言われましたが、自分の好きなことやらせてもらっているので「シンドイ」と感じたことはありません。むしろ喬介師匠は私に落語の稽古をつけるだけでなく、自身のお稽古もしないといけないので大変だったと思います。

修行中の3年間は落語界以外の人と話すことはありませんでした。これからは昔の友達や今まで付き合いのなかった人たちとも意識して交流することを心がけたい。それを通して彼らの世界を落語の中に取り込んでいくつもりです。

かつては、いい子でなければならないという気持ちが強かったのですが、落語に出会ってからは自分なりに一歩一歩着実に進んでいけばよいと思えるようになりました。

(6/3 神戸新開地の喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

喜楽館の前で、喬明さんが「ドンドンドンと来い」と一番太鼓を打ち始めると、新開地本通りを歩く人がカメラを向けていました。太鼓を打つ着物姿が映えるからでしょう。着物姿が決まっているのはお母さんの影響かも知れません。

お話を聞いた2日後の夕刻に、笑福亭喬介師匠が地元で主宰する北野田駅前寄席に行ってきました。喬介師匠を含めて3人の落語家が登場しました。会場には70人を越えるお客さんで後方に椅子をあらたに用意するほど盛況でした。

喬明さんも前座で登場して、その日がネタおろしだという「寄合酒」を披露。お茶子もしていました。その時に気づいたのは、会場のお客さんが非常に温かいことでした。孫を見るような目だったのです。同様に喬介師匠を応援している雰囲気も伝わってきました。

実は、私が会場に行くのに駅前で迷っていると、通りがかりのおじさんが会場まで案内してくれました。その道すがら「喬介は小さい頃からよく知っているんですわ」と嬉しそうに語ってくれました。地元の皆さんに愛されていることが、伝わってきました。

喬明さんが喬介師匠に弟子入りしたいと感じた理由は、このあたりにあるのかもしれません。喬明さんを見る目が、かわいい孫から、「落語上手になったなぁ」「成長しているなぁ」という声が聞こえるように頑張ってほしいと思いました。「期待してまっせ~」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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