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2024/08/06

第六回 「落語家と僧侶の二刀流」<露の団姫インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第六回は露の団姫さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!

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「落語家と僧侶の二刀流」(露の団姫のインタビュー)

芸名 露の団姫(つゆのまるこ)
本名 鳴海春香(なるみしゅんこう)
生年月日 1986年(昭和61年) 10月17日
入門年月日 2005年(平成17年) 3月7日「露の団四郎」

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15歳で落語家になると決意

私は小学校の高学年から劇団ひまわりに席を置いていました。オーディションを受けてテレビ番組に出たこともありましたが、成長するにつれてシリアスなドラマよりも「笑い」に興味を持ち始めました。また現代劇よりも古典芸能に関心がありました。演劇の仕事では、競争も激しくて内部のもめごともあったので、一人で責任をもってやれることを求めていました。「古典芸能で、一人で出来て、面白く笑える」という3つの条件が結びついたからか、15歳の頃に、自分が高座で落語をしているイメージがわいてきました。両親ともに落語好きだったことも関係があるかもしれません。

また小さい頃からの死に対する恐怖をきっかけに、仏教にも興味を持ちました。書籍を読む中で僧侶(尼)になることも頭に浮かびました。私の中ではお坊さんと落語家は近いと思っていました。

落語家になるには師匠を探さなければなりません。当時住んでいた名古屋から、東京や大阪の寄席に行ったりしていました。また高校2年生からは、土日は名古屋の大須演芸場で、掃除やお茶子や呼び込みをしていました。何かしておかないといけない気がしたのです。

大須演芸場の席亭(寄席の経営者)は「バイト代は出さないぞ」と言ってましたが、弁当代は支給されました。両親は、末っ子だったからか「やりたいことは何でもやりなさい」と自由にさせてくれました。

団四郎師匠に弟子入り

初代露の五郎兵衛がお坊さんで落語を始めた人だと書かれた本で読んで、落語家と尼さんのどちらにもなりたい私には響きました。それをきっかけに、露の一門の落語会に足を運ぶようになりました。その頃の二代目露の五郎兵衛師匠(当時、露の五郎)はもう弟子をとらないと聞いていました。京都市民寄席で、露の団四郎師匠が「初天神」を披露されました。楽しく明るい芸風に惹かれて、この師匠の下なら全力で落語の修行ができると思いました。

当時、団四郎師匠は大須演芸場に出演されることがあったので、ある日、演芸場の席亭から名古屋の老人会の寄席に師匠が行くことを教えてもらい、弟子入りをお願いしました。その時は、「あまり人に勧められる仕事でもないし」と断られました。2回目は両親も一緒に師匠とお会いしましたが同じ言葉が返ってきました。それでも諦めることなく、弟子入りをお願いしていると、師匠から「どれくらい本気なんだ」と問われて、「OKが出ればすぐにでも高校を辞めて弟子入りします」と答えました。

そういうやり取りがあって、高3の6月に「弟子にとるので、高校は出ておくように」という手紙を団四郎師匠からもらいました。師匠は、弟子をとっていなくて、私が女子高校生ということもあって相当悩み、周囲にも相談されたと後日聞きました。高校を卒業した2005年3月に弟子入りしました。18歳の時です。

高校時代は、ほとんど勉強をしなかったので成績は低空飛行。ジャニーズの追っかけや受験勉強に励んでいたクラスメートから見れば変わった存在だったでしょう。友達も多くありませんでした。それでも目標の落語家になれるということで私は意気揚々でした。

大師匠宅に住み込み修行

 弟子入り後は、団四郎師匠の家の隣にアパートを借りて住みました。朝7時に団四郎師匠のところに休みなく通いました。お稽古をつけてもらってそれを繰り返し、また落語について覚えなければならないことも多くて必死でした。

団四郎師匠に弟子入りし3か月ほどして、師匠から「大師匠の家で、住み込みの弟子をやらないか?」というお話がありました。二代目露の五郎兵衛師匠は当時73歳。おかみさんとの二人暮らしで用心も良くない。孫弟子が家に入れば、修行がてらお手伝いができるのではないかと露の一門で話があったそうです。新たな環境に不安もありましたが、住み込み弟子にも興味があったので「お願いします!」と即答しました。

大師匠は病気を抱えていたので車で病院への送迎もしました。また弟子入りした翌年には、繁昌亭がオープンになって落語人気も盛り上がり、大師匠を落語会にお送りすることも増えました。落語の稽古はもちろんですが、車内や自宅で、大師匠の昔話や内弟子時代の思い出、人生訓などからも学ぶことができました。

大変だったのは、睡眠時間です。大師匠は朝早く起きる一方、おかみさんはテレビなどを見て12時過ぎまで起きています。お二人の対応をしているとどうしても睡眠時間が不足がちでした。

大師匠はクリスチャンなのですが、「大法輪」という仏教総合雑誌を宅配で定期購読する了解のお伺いを立てると、「信仰を持つことは、ええこっちゃ」と快諾いただいたのも良い思い出です。両親も「落語家として修業させることを特に心配していない」と言っていましたが、団四郎師匠の家に二度ほど状況伺いとお礼の電話があったそうです。やはり娘のことが心配だったのかもしれません。

この3年間の修行を振り返ってみますと、弟子よりも師匠の方が弟子に対して気を使っているのかもしれません。師匠、大師匠、おかみさんには頭が下がるばかりです。落語のみならず、信仰にとっても充実した生活だったと感じています。

私の年季があけてちょうど1年たった頃、2009年3月30日に大師匠の露の五郎兵衛は亡くなりました。享年77歳でした。大きなご恩に応えるためにも落語に打ちこむ決意をあらたにしました。

二刀流を磨く

入門してから、ほぼ20年になりました。将来は名人と呼ばれるような落語家を目指して引き続き精進していくつもりです。

大師匠は、滑稽噺だけでなく、怪談噺、芝居噺なども高座にかけられていました。怪談噺では、幽霊が櫛(くし)で髪の毛をとく場面がありますが、大師匠の怪談では、そこで本当に女性の髪の毛が見える、という評判がありました。私も古典落語、新作落語に加えて、自作の仏教落語にも取り組み、個性を活かしながらお客さんに喜んでもらえるように成長していきたいと考えています。

また2011年に天台宗の僧侶になりました。その後、2021年7月には、兵庫県尼崎市にある天台宗の寺院、道心寺(どうしんじ)を開山しました。そこで住職として仏事や悩み相談を受け付けています。また本堂内の舞台では毎月3日、13日、23日に「縁日寄席」を開催。落語の高座と仏教のPRの両立にこれからも取り組んでいきます。

お客さんに笑いを届け、尼さんとして仏教の魅力を伝える。「プロ(落語家)にしてアマ(尼)」! 」これが私の生きる道なのです。

(6/13 神戸新開地の喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

露の団姫さんのお話を聞いていて、私の15歳の時と比べていました。喜楽館のある新開地界隈の映画館やゲームセンターで遊び、夜は、友人と一緒に銭湯で長時間だべる毎日でした。銭湯のおかみさんから学校にクレームが来たこともあります。

団姫さんが大切にしている言葉の一つは「言行一致」だそうです。私の子どもの頃に、周囲の大人は「俺が本気だしたら、こんなもんじゃない」と言う人は多かったのですが、「いつ本気出すのかなぁ」と思う人ばかりでした。それに比べると、団姫さんの有言実行に驚きました。

私はサラリーマンと著述業を10年間並行して取組みました。一番感じたのはそれぞれの仕事の質が高まる相乗効果があったことです。人はいろいろな面を持っているので、二つか三つのものごとに同時に取り組んだ方が全人格的に生きることにつながると感じました。団姫さんの落語家と僧侶を兼ねるお話を聞いてあらためて当時を思い出しました。団姫さんの二刀流がますます磨きがかかることを「期待してまっせ!」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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