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トップページ > ニュース >  私が落語家になったワケ   >  第四十九回「ワクワク感を与えられる落語家に」 <笑福亭 智丸インタビュー>

2026/04/06

第四十九回「ワクワク感を与えられる落語家に」 <笑福亭 智丸インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第四十九回は笑福亭 智丸さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!

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ワクワク感を与えられる落語家に
(笑福亭 智丸インタビュー)

 

芸名 笑福亭 智丸(しょうふくてい ちまる)
本名 疋田 龍乃介
生年月日  1988年(昭和63)年11月17日
出身地 ​大阪府
入門年月日  2013年(平成25年)4月1日 師匠「笑福亭 仁智」
公式X @chimaru_s

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お笑いと文学が好き

私は大阪市の天神橋筋六丁目、いわゆる「天六」で育ちました。子どもの頃から、とにかくお笑いが好きでした。家では吉本の漫才番組やバラエティ番組をよく見ていました。好きな芸人は沢山いましたが、ティーアップの前田さんや、チャンバラトリオの頭だった南方さんの、どこかとぼけた間が特に好きでした。

中学生になると、自転車に乗って当時の梅田花月に足を運びました。恥ずかしがりで人前が苦手、クラスで何か面白いことを披露するようなタイプではなく、どちらかといえば客席で笑っている側の人間でした。

一方で、私は昔から文学も好きでした。本格的に小説を読むようになったのは中学生の頃からでした。特に衝撃を受けたのが司馬遼太郎の『燃えよ剣』。新選組の土方歳三を描いたこの作品で何度も涙を流しました。活字だけで、こんなに人の心を動かすことができるのかと驚いたことを覚えています。

高3の時に天満天神繁昌亭が開場

関西大倉高校に進むと、文学への興味はさらに強くなりました。中島らもさんや町田康さんにどっぷりはまりました。町田さんの小説は文体が独特で、読んでいて思わず爆笑してしまう。私にとって新鮮な体験でした。

高校の文芸部で短編やショートショートを書き、文学賞にも応募しました。大きな賞ではありませんが、作品が入選するなどして、少し自信がつきました。「書くこと」は、自分にとって大きな表現手段になっていきました。現代詩の創作も始めるようになり、現代詩手帖の投稿欄の常連になり、詩集まで出すに至りました。

高校3年生の時に上方落語の定席である天満天神繁昌亭が開場しました。家からも近く、杮(こけら)落としの頃から通うようになりました。

漫才やコントの舞台は、どちらかというと個々がぶつかり合うような「フルスイングの笑い」の印象だったのですが、寄席は前の演者から次の演者に自然とつながっていく。どこか“チームプレー”を感じる温かさがあり、さらに、笑いだけではない人間自体の魅力が滲み出てくるような落語の特性に衝撃を受けました。文学との相性も良かったのだと思います。なんだか優しさの風のようなものを感じて、一気に落語に傾倒するようになりました。

早くから落語家を志望していたが

大阪芸術大学文芸学科に入学すると、すぐに落語研究会に入りました。その頃の先輩には、Ⅿ-1で優勝したミルクボーイさんや、ななまがりさんなど、後に活躍する芸人さんもいて、落研にはディープなプロ志向の空気があり、ちょっと過激だけど夢があって楽しくて居心地が良かった。

私は、後に師匠となる笑福亭仁智に弟子入りしたいと当時から考えていました。繁昌亭で師匠の高座を見て、笑いの波長が自分に合う気がしたのです。子供の頃から馴染んでいた新喜劇や漫才の型と呼吸を落語に詰め込んだような、花月の笑いの集合体的な雰囲気を師匠に感じていました。

大学1回生の時から2年ほど繁昌亭でバイトもしていました。切符のもぎりや発券の手配なので落語を観ることはできませんが、憧れてる世界なので見てみたいと応募しました。

しかし落語家になる踏ん切りがなかなかつきませんでした。落語家の世界は厳しい。食べていける保証もない。そんな不安もありました。結局、詩歌や文学にも興味があって大学院まで進み、修士を終えるまで決断できませんでした。

「それじゃ、見習いで来るか」

大学院で修士論文を提出したあと、1月にやっと決意が固まり、繁昌亭の楽屋口で師匠を出待ちして、思い切って声をかけました。「弟子にしてください」。はじめはお客さんかと思ったのか笑顔だった師匠の表情が一瞬で険しくなったのを覚えています。後日、師匠に話を聴いてもらって「それじゃ、一本覚えてこい」と言われました。それが事実上の入門試験だったのでしょう。

上方落語協会内で、師匠の前で「二人癖」を披露しました。終わった後1分くらい沈黙が続いた後に、「見習いで来るか」と言っていただきました。

入門前に、父親と一緒に挨拶に伺いました。師匠の「厳しい世界ですが、餓死している人がいるというのも聴かないし」という言葉を覚えています。親は、高3の頃は落語家になるのを反対していましたが、この頃には「いつなるんだ」という雰囲気でした。

正式に入門したのは2013年4月1日。笑福亭智丸の名前を6月にいただきました。私が24歳の時です。

「細部の大切さ」

3年間の修行期間中は、着物を畳むのも遅く、太鼓も下手で、よく怒られました。自分の不器用さを思い知らされました。弁当屋や書店などでアルバイトをしながら修行に励みました。

師匠の仕事で地方に同行する機会が多く、前座噺でも丁寧に演じれば、マニアックな落語会のように特別な演出をせずとも、お客さんは素直に笑ってくれる。当たり前のことなのですが、落語の本質的な魅力がわかるようになった実感があり、今でもそれが原点です。

修行中に一番学んだのは「細部の大切さ」です。素人の頃は「大雑把でも最終的にウケていればいい」と思いがちでした。ところがプロは違う。言葉の語尾一つ、間の取り方一つまで丁寧にやる意識が大切で、その積み重ねが高座を作るのだと教えられました。今は細かい点を押さえていないと高座に上がるのが怖いです。

詩歌や文学と落語との統合も

師匠は、弟子期間中に、10本の噺ができることをノルマにしていました。年季が明けてからは仕事も増えて、前座として忙しい日々が始まりました。その頃、初めて月収が20万円を超えたとき、「ああ、やっと社会人になれた。プロを名乗れるな」と感じたのを覚えています。

落語家になって13年になりました。今は古典落語と新作落語の両方に取り組んでいます。数がすべてではありませんが、古典100本、新作100本という持ちネタが近い目標です。

目指しているのは、古典新作の両輪でいくことで「この人は、今回は何を演じるのだろう」とお客さんにワクワク感を届けることができる噺家です。本格的な古典から馬鹿馬鹿しい新作まで、芸歴を積んでもその振り幅を狭めずに、ウケたりスベッたりし続けたい。どちらも楽しんで頂ける噺家になれたら理想です。

また、ここ数年、母校の大阪芸大で教える機会を頂いています。4月からは准教授になります。若い人の発想や感覚に触れることは、自分の落語や創作にも刺激になっています。

落語界の文芸派として、文学作品を題材にした落語や、詩の朗読と落語を組み合わせた会など、言葉の面白さや奥行きをさまざまな形で届けられたらと思っています。そうした可能性を、少しずつ形にしていきたいです。
(2月26日 神戸新開地・喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

この日の昼席では、不動産会社の担当者が顧客対応する様子をネタにした新作落語「FUUMO」でした。寄席での初めての披露だったそうです。現代版の楽しい噺でした。

取材を通して一番印象に残ったのは、智丸さんが子どもの頃から、お笑いと小説の両方に強い関心を持っていたことでした。漫才や寄席の笑いに親しむ一方で、司馬遼太郎や町田康の作品に夢中になる。その二つの興味が途切れることなく続き、現在の落語や文学、詩歌の活動へとつながっているように感じました。

二つ、三つのことを並行して行うと、エネルギーが分散して中途半端になるのではないかと考える人もいます。しかし、それぞれが本人にとって意味のあるものであれば、むしろ相乗効果が生まれます。異なる分野に取り組むことで気分転換にもなり、結果として自分の力をより引き出すことができるのです。

私自身も、生命保険会社の会社員と著述業を行っていた時にそれらを感じました。

智丸さんには、落語と文学という二刀流をさらに磨き、「今日はどんな芸を見せてくれるのだろう」とお客さんをワクワクさせる落語家になってほしいと思います。「期待してまっせ―!」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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