神戸新開地・喜楽館

  • 神戸新開地・喜楽館twitter
  • 神戸新開地・喜楽館facebook
  • 神戸新開地・喜楽館Instagram
電話をかける
スマートフォン用メニューを表示する
トップページ > ニュース >  私が落語家になったワケ   >  第三回 私が落語家になったワケ<桂そうばインタビュー>

2024/06/20

第三回 私が落語家になったワケ<桂そうばインタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第三回は桂そうばさんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!

—————————————————————-

「人と人がつながる落語家への道」(桂そうばのインタビュー)

 

芸名 桂そうば(かつらそうば)
本名 熊澤 誠 (くまざわ まこと)
生年月日 1978年 (昭和53)8月10日
出身地 福岡県福岡市
入門年月日 2005年(平成17年)10月25日、師匠「桂ざこば」

—————————————————————-

大学で初めて落語に出会う

落語との出会いは、神戸大学の入学時だった。数多くのクラブの勧誘があったが、落語研究会に誘ってくれた人が一番面白かった。一緒に食事に行って入部を決めた。

それまでは全く落語に触れたこともなく、福岡出身だったため落語の大阪弁の壁は厚かった。初めの頃は稽古をして臨んでも全然ウケなかった。ところが2年生で「寄合酒」を披露した時に笑いが返ってきて手応えがあった。努力に対して見返りがあると実感できた。授業にはあまり出席せずに、神戸市灘区の下宿と大学の落研の部室を往復する毎日だった。

その頃に神戸元町の「恋雅(れんが)亭」で桂ざこば師匠の「強情」の一席を聞いて、「なんじゃ、これは!」とびっくりした。ストーリーがあってオチがあるのが落語だと思っていたが、ひたすら強情な人が出てくるだけの噺。でも会場は割れんばかりの笑い声に包まれていた。就職活動を経て、2003年4月に武田薬品工業に入社。当時は、プロの落語家になることは頭の中にはなかった。

ロックンロールに触発される

薬品についての基礎研修を受けた後に、岡山県内の病院を担当するMR(医薬情報担当者)になった。担当エリアを一人で車に乗って病院回りをする日々で、人間関係などの悩みもなかった。当初は順調に仕事をしていたが、2点ほど疑問が生じてきた。

一点は、MRの給与はひとりで暮らすには十分過ぎるぐらい高かった。学生時代はお金持ちになれば幸せになれるだろうと思っていたのだが、実際にお金を持ってみてもさほどの幸福感は無かった。

もう一点は、病院相手に自社の薬のメリットを強調するが、他社の薬とは大きな差異はない。別の製薬会社に転職すれば、その会社の製品に応じた説明をするだろう。営業トークに対して本気になれない自分がいた。

会社を辞めようと思った半年前から、なぜかロックンロールを聞き始めた。助手席にコンポを持ち込んで、ロックバンドのCDを大音量で鳴らしながら運転するようになった。

ある日、岡山から車を飛ばして、神戸三宮のライブハウスで、ロックバンドの銀杏BOYZとサンボマスターの生のライブを聴いた。ステージにいた彼らの姿が神々しく見えた。しかも彼らは私と同世代。「輝いているなぁ、なんでこんなにかっこいいのだろう」と考えると、彼らはやりたいことやっているからだと確信した。

自分がやりたいことは何かと振り返った時、落語家になろうと決意した。弟子になるとすれば、ざこば師匠と決めていた。師匠なら分かってくれるという根拠のない自信だけはあった。その頃2004年10月に岡山での米朝一門会に行くと、ざこば師匠は「強情」の噺をされた。なにかご縁があったのかもしれない。

吉幾三さんとの出会い

九州に戻った時に、家族に落語家になると話した。全員が反対して、父親は「何を言うとるとや」という反応で、特に母親は泣いて激怒した。私は3人兄弟の三男なので、もう子育ては終わったはずなのに、という気持ちだったのかもしれない。

2004年12月に上司に退社を申し出た。同期入社の女性が結婚して寿退社することが決まっていたので、「新卒社員の部下に同時に辞められると、俺に管理能力がないと思われるから半年待ってくれ」という反応だった。落語家になるという理由が余りにも想定外だったからか退社を引き止められることはなかった。

私が福岡の幼少の時、私のことを息子みたいに可愛がってくれているおばちゃんがいた。彼女は私が中学生の時にハワイに移住して、レストランの店長をすることになった。私の母が、彼女に国際電話で息子のことで愚痴をこぼしたらしい。それを聞いた彼女が知人の吉幾三さんにその話をすると、吉さんが「僕が一言言ったほうがいいだろう。紹介してあげるよ」ということになった。

吉幾三さんに「一度会おう」と大阪全日空ホテルに呼び出された。その日は、岡山市民会館でNHKの歌謡ショーがあったので、一緒にグリーン車の横の席に座って同行した。切符は吉さんがみどりの窓口で自ら購入してくれた。「岡山でお世話になった人もいるだろうから皆さんにこれでお菓子でも買って挨拶にも行ってきなさいよ」とお金を渡された。売れていない芸人の気持ちもよく理解されていたのだろう。初めて会った私に、「ざこばさんには話をつなぐし、あなたはこれから大変な世界に入るから、お金に困ったら私に言いなさい」とまで言ってくれた。帰りの交通費をもらって大阪に戻った。

桂ざこば師匠に入門

吉さんは、ざこば師匠に「信用に値する男の子が行くから会ってあげてほしい」と電話をしてくれた。1週間くらいして師匠から電話があって毎日放送に出向いた。「弟子入りしたいんです」と言うと、「やめとけ、やめとけ。こんな世界食えないから。サラリーマンやってるんやろ」と諭そうとしたが、「もう会社は辞めました」と話すと、「エッ、勝手にそんなんされたら困るやんか。かなわんな。でも落語家はやめといたほうがよい」と念を押された。

「そこを何とか弟子入りさせてください」とのやり取りがあった。その何日か後に師匠に指定された落語会に行くと、「横で落語を見ていなさい」。それを3,4回繰り返したら、1ヵ月くらいして「いいよ、弟子にとるわ」と言ってくれた。

弟子入りを許してくれた理由はよく分からない。最終的には相性しかないような気がする。前年に弟子の桂喜丸兄さんが亡くなった時に、師匠はもう弟子はとらないと公言していたので、吉さんの紹介がなかったらスムースにいかなかったかもしれない。

2005年9月まで武田薬品で働いた翌月、ざこば師匠のところに入門。27歳の時だった。2年余りの内弟子の期間は大阪市内の中津に住んだ。師匠は毎日レギュラーが入っていたので、テレビ局、ラジオ局に集合することが多かった。夜は、ほぼ毎日酒席があったので、弟子としてずっと師匠の横でアルコールを飲まずに座っていた。会合がお開きになると運転手として自宅に師匠を送る。落語の稽古は楽屋や師匠の家で付けてもらった。

これからが正念場

今年46歳になる。噺家のピークは65歳位だと感じていて、落語家は50歳から65歳位が一番良い時期だと思っている。先輩方もそう話す人が多い。あと4年で50歳になるのでこれからもっともっとインプットしていきたい。

自分は三男坊特有の偏屈なところがあるから、長男次男がやっている、前例があることはやりたくないという気持ちが昔からずっと強い。藤沢周平の短編小説を落語にするのは自分だけだろうし、新作落語も何本か作っているが自分しか演じない。古典落語でも自分ならではの解釈、演出をやろうと意識している。今はそこを一番大切にしていきたいと考えている。

(5/27 神戸新開地の喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

桂そうばさんの弟子入りに到るまでのストーリーが面白すぎて引き込まれました。今回のお話で感じたのは、人と人とのつながりや信頼関係ですべてが動いていることでした。入部を決めた落語研究会の先輩―ロックンローラーーハワイのレストランの店長―吉幾三さんーざこば師匠。そこには金銭的な欲得や自己中心的な考えはありません。

特に吉幾三さんの対応には驚きました。勝手な想像が許されるなら、吉幾三さんはかつて苦しい時期に誰かに助けられた経験があって、恩返しをしたくてもその人はもういない。負い目を感じているところに、かつての自分に似た若者が目の前を通ると、何とかして手を差し伸べて、自らの抱えている債務を軽くしたい気持ちがあったのではないでしょうか。

そう考えると、落語家の師匠と弟子の関係も相似形で、弟子が一人立ちして独立しても、師匠に直接お礼をするのではなくて、弟子をとって育てることによって恩返しをするというシステムができ上っていると言えるかもしれません。

そうばさんには、個性を発揮してオンリィワンの噺家になるとともに、夢を追いかける若者を弟子にとって立派に育てて、ざこば師匠のみならず、落語家になるのにお世話になった人々への恩返しをする姿を見たいと思っています。「期待してまっせ~」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

交通案内

アクセスマップ

周辺駐車場マップ

トップへ戻る