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2025/09/22

第三十五回 建築家志望から落語家へ <​​桂 歌之助インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第三十五回は桂 歌之助さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!

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建築家志望から落語家へ
(桂 歌之助インタビュー)

 

芸名 桂 歌之助(かつら うたのすけ)
本名 ​横田 純一郎
生年月日 ​1971年(昭和46年)3月13日
出身地 大阪府高槻市
入門年月日 ​1997年(平成9年)3月1日 師匠「二代目 桂 歌之助」
公式Instagram @ruutokome2021

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建築家の夢は消える

小さい頃からお笑いは好きだったが、テレビ番組を観て翌日クラスメイトと楽しく語らうくらいだった。小学生から滋賀県の大津市内で育った。

高校の時は、隈研吾さんなどのスター建築家が面白い建物を造って世の中が湧いていた。バブル期でお金が余っていたのだろう。そういうムードを感じて、東京に行って建築家で一旗あげたいと思っていた。2浪して千葉大学工学部に入学。

建築については、6Bの鉛筆でわーっと書いて建物の形にするイメージを抱いていた。しかし実際の図面は、ドア一枚も全てミリ単位で製図を書く。こんなに細かくて面倒くさいのかとショックだった。また建築は1人ではなくチーム内で分業としてやっていく。自分の個性も簡単には出せない。

落研の初舞台で大いにウケる

関西では視聴者参加型のお笑い番組も流行っていたので、大学の落語研究会には面白い人がいるだろうと覗いてみた。千葉大学の落研は結構真面目にやっていて、先輩が落語の手ほどきをしてくれた。

当時は、明石家さんまさんやダウンタウンさんが東京に進出していて、「関西弁を喋るだけで、この人は面白い」という受け止めだった。1回生の6月の初高座では、『鉄砲勇助』のネタでめちゃくちゃウケた。

それまでは人前で芸を披露するタイプではなかったので、自分には余計にインパクトが大きかった。それをきっかけに大学時代は落語一色になった。江戸落語には関心がなくて、部室にあった米朝師匠や枝雀師匠のテープを繰り返し聴いていた。

大学を卒業する1996年頃は、すでにバブルは弾けていた。好きなことが見つかるまでフリーターで働くという考え方が出始めていた。大学時代に1番前向きに取り組んだ落語を続けたいという気持ちだった。就職活動も真剣にやらなかった。

歌之助師匠の人柄に惹かれる

落語家になるには、厳しい修行が必要だろうと考えていた。そこで自分に自信を持とうと卒業後すぐに徒歩旅行に出た。千葉を出発して3か月かけて、青森まで街道を歩いた後に日本海に出て、秋田から栃木を回って帰ってきた。その後7月には実家に戻って、あちこちの落語会を見て回った。

この年の秋に、桂雀々師匠に入門志願に行った。師匠からは「ちょっとタイプが違いすぎる」という反応だった。雀々師匠に憧れていたが、通い詰める中で互いの相性の面で無理かなと感じ始めていた。

高槻の社会人落語会のメンバーから「桂歌之助師匠(二代目歌之助)は、地味だが教えるのがうまくて、多くの人が稽古に来ている」という話を聴いた。小佐田定雄先生の本で調べてみると、歌之助師匠も建築科の大学を志して2浪していたので親近感もわいた。

その年の12月から桂歌之助師匠の見習いとしてついた。雀々師匠は芸に惚れたが、歌之助師匠の場合は人柄という面が大きかった。

自分の居場所ができる

しばらくして歌之助師匠が急性膵炎で入院した。入門に際しての親との面談も病室だった。師匠はかっこ悪かったと感じていただろう。おまけに私の父親は医師だった。 

両親は元々落語家になるのは大反対。芸人になるのはアウトローになる感じの受け止めだった。それでも私が言うことを聞かないのでどうしようもない。1997年3月1日に入門。歌々志を名乗る。25歳の時である。自分の居場所ができた安堵感はあった。

師匠は、外見はすごく真面目で地味な人だったが、本日の喜楽館昼席で披露した、手作りの骸骨の人形を操って噺をする珍品『善光寺骨(こつ)寄せ』を得意ネタにするなど、大胆なこともする懐の深い人だった。

修行中に師匠の家に入るのは午後1時。当時でも住み込みの弟子や、朝の8時半に毎日師匠の家に通う人もいたので緩いと言えば緩かった。同時期に入門した弟子たちに対するなにか後ろめたさもあった。ただ師匠は弟子に限らず、人とべったりと一緒にいるのが嫌なタイプだった。ただ落語の稽古はよくつけてもらった。

入門5年目で師匠が亡くなる

弟子期間は2年だった。親も最後は納得してくれて、初舞台の時も看護師さんや職場の仲間を呼んで応援してくれた。年季が明けた時は、師匠や先輩の落語会での前座で忙しくなる。ただ現在のように繁昌亭や喜楽館、動楽亭などの落語の定席の場はなく、お寺やそれこそ喫茶店での落語会も珍しくなかった。

私が入門して5年目に師匠は55歳で病気で亡くなった。一門の師匠や先輩が、「あいつは師匠を亡くしているから」と気に留めていただき、お稽古などでも支えていただいた。

10年目に歌々志(かかし)改メ三代目桂歌之助を襲名した。独立してからは、今でも続けている2か月に一度の自身の勉強会が修行の根本となった。そこでネタを覚え、ネタ下ろしを続けてきた。

丹波篠山にカレー店をオープン

仕事で地方に行くうちに、40歳を越えて田舎暮らしをしたくなった。地域に馴染むためにはお店をすればよいと発想して、兵庫県丹波篠山市にカレー店『ルーとこめ』を開業した。今年の9月で丸4年になる。月に2日不定期で営業している。おかげさまで順調にやっている。

自分が作ったカレーをお客さんに目の前で食べてもらう。美味しかったら笑顔で応えてくれる。お客さんの反応は舞台よりもはっきりわかる。わざわざ篠山まで来てくれて、混んでいる時は1時間待ってくれることもある。自分はお客さんのことを思って、心を込めて一生懸命材料を切って料理をする。落語も全く同じことだとあらためて気づいた。

師匠が存命だったら、このカレー店での活動をどう思われるだろうかと考えることがある。多少キツイことを言われても、掛け値なしにアドバイスしてくれるのは師匠しかいない。そういう意味では寂しさはある。若い時は、私自身の視野が狭くて師匠を失う大きさを理解できていなかった。

落語を通して喜んでくれるお客さんの数を一人でも二人でも増やしていけるように自分を磨いていきたい。
(7/31 神戸新開地の喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

喜楽館の会議室で、いろいろなお話をうかがいました。

この日の喜楽館の昼席は、<熱中笑大作 納涼ウィーク>で、幽霊が出てくる怪談噺など夏場にぴったりの噺が続きました。

その中でも石川五右衛門も登場する歌之助さんの『善光寺骨寄せ』には驚きました。歌之助さんの手作りの骸骨の人形が、照明を落とした暗闇の中で動き出すという演出もありました。唯一、先代の歌之助師匠だけが演じたネタだそうです。

歌之助さんは、三代目桂歌之助を襲名した2007年に、咲くやこの花賞、文化庁芸術祭新人賞、第1回繁昌亭輝き賞を連続して受賞されています。師匠とのご縁もあったのかもしれません。

丹波篠山にカレー店をオープンした話も興味深くお聴きしました。今年11月1日、2日に喜楽館のある神戸新開地で、第一回の「神戸落語まつり」が行われます。(https://kobe-rakugomatsuri.jp/)。
その中で「新開地商店街と落語家のコラボ企画」があって、歌之助さんは、店舗「ドミロン」でカレーを提供される予定です。ぜひ皆さんお越しください。

歌之助師匠のこれからの益々のご活躍を「期待してまっせ―!」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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