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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第四十三回は桂 春雨さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!
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上方落語の継承・保存の気持ちがあった
(桂 春雨インタビュー)
本名 中田 雅也
生年月日 1964年(昭和39)年1月28日
出身地 東京都文京区
入門年月日 1983年(昭和58年)4月 師匠「三代目 桂 春団治」
公式X @harusamek
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東京から関西に来て落語家になっているのは、現時点では僕だけです。生まれたのは文京区の白山(はくさん)。料理屋・待合茶屋・置屋(芸者屋)が集まる、いわゆる三業地と呼ばれた花街でした。
我が家の向かいは芸者の置屋、右隣にはお妾さんが住んでいて、昼間に端唄や三味線を教えていました。左隣は待合で、大阪でいうお茶屋さんです。
幼稚園から帰る夕方4時ごろ、向かいの置屋さんへ遊びに行くと、ちょうどお姉さんたちが風呂から上がって化粧をしている時間で、友達と一緒にその中で遊んでいました。お菓子をもらったり、ずいぶん可愛がってもらいましたね。
近所には落語家の先代三遊亭圓遊師匠が住んでいて、『笑点』の大喜利メンバーとして活躍した小圓遊師匠が出入りしてるのを見て、「良い着物を着てるなあ」と思ったのを覚えています。実家は、書籍などを入れる紙の箱を作る仕事をしていました。
小学校5年生の4月から、『愛と誠』という人気漫画のラジオドラマが始まりました。親に買ってもらったラジカセで聴き始めたのがきっかけで、ドラマに夢中になりました。
9月末に『愛と誠』が終わった頃、父親が「落語を聴いてみたら」と勧めてくれました。初めて聴いたのが、古今亭志ん朝師匠の「抜け雀」。一人でやっているのにテンポがよく、ドラマ以上にリアルに情景が伝わってくる。大きな衝撃を受けました。
1年ほど経った頃、噺の途中に三味線が入る落語に出会います。桂小南師匠の『宿屋仇』でした。父に聞くと、「関西出身で、東京で唯一上方落語をやっている噺家だ」と教えてくれました。そこから関心は一気に上方落語へと移っていきました。
中学校に入った頃、神田神保町の伝統芸能専門の古書店「豊田書房」で、小南師匠の本を2時間立ち読みしたこともあります。昭和40年代半ばに書かれた本のあとがきに「上方落語は滅びかけている」と書かれていたのが、強く心に残りました。
中学3年生の進路指導のとき、先生は高校の志望校を聞きたかったのでしょうが、僕は「落語家になりたいです」と答えました。上方落語が滅びそうなら、自分が保存・継承するつもりだったからです。
先生から親に電話が入り、親からは「とりあえず高校には行きなさい。卒業したら好きにすればいい」と言われました。一時の気まぐれだと思っていたのでしょう。自由な校風で知られる小石川高校に進学しました。
高校に入ってからも気持ちは変わりません。同級生にも、進路指導でも「落語家になります」と、当然のように言っていました。桂春団治、桂小文枝、桂枝雀といった師匠方の落語をラジオやレコードなどで聴いていました。
落語研究会にも所属し、年に一度の文化祭で発表する機会がありました。顧問の先生と相談し、五代目三遊亭圓楽師匠のテープで覚えた『二十四孝』を演じたのですが、これで江戸落語は卒業。大阪へ行き、滅びつつある(と思っていた)上方落語を保存しようと考えていました。

上方落語を聴き込むうちに、後に師匠となる桂春団治の存在に強く惹かれていきました。子どもの頃から三味線の音を聴き、芸者さんの所作を目にして育ったので、仕草や踊りの素養を感じさせる噺家に魅力を覚えたのだと思います。
弟子になるにはお金も必要だろうと、高校卒業後にアルバイトをしました。図書館で『芸能紳士録』を調べ、師匠の自宅住所を確認して直接訪ねました。
これまでの経緯を話し、「厳しく仕込んでいただけると聞いて参りました」と言うと「厳しいのが分かっているなら、弟子に取りましょう。一度親御さんを連れてきなさい」と言われました。後日、父と一緒に角座へ挨拶に伺いました。背筋の伸びた師匠の佇まいに、父は落語家というよりも、踊りやお茶の師匠のような風情を感じたようで、安心した様子でした。その場で弟子入りは決まり、名前をいただいたのは4月1日。高校卒業の翌年、19歳のときでした。
師匠の自宅近くにアパートを借り、毎朝9時50分から師匠宅での生活が始まりました。食事の準備を手伝い、掃除は毎日が年末の大掃除のように徹底的に行いました。
師匠は、稽古でも何でも最初は優しく丁寧なのですが、2回目以降はうまくいかないと厳しく叱られます。「こう教えたのに、なぜ君はできないんだ」と論理的である分、余計に心に堪えました。
仕事のない日は稽古に訪れる人が多く、師匠は頼まれると断らない人でした。掃除をしているふりをしながら、稽古の声に耳を澄ませていました。
仕事に付いていくこともありましたが、とにかく覚えることが多い。師匠によって流儀が違うので、手帳には「この師匠はお茶を早めに」「着物は早くたたむと喜ばれる」など、30人分ほどの対応するメモを書き留めていました。
弟子期間は2年間。当時は繁昌亭や喜楽館といった定席はなかったのですが、着物のたたみ方もうまく、鳴り物もできたので、サラリーマンの初任給程度の収入はありました。修業明けにアルバイトをする必要はありませんでした。
当初は上方落語の保存と継承という思いが強く、三味線や寄席囃子なども学びました。しかし落語家が増え、「もう自分が保存しなくてもいいか」と感じるようになり、次第に好きな噺をやるようになりました。
師匠から学んだのは、やや古い船場言葉でしたが、極端にコテコテではないので、大阪弁であまり苦労した記憶はありません。
上方の噺家で東京に住み、懸命に活動している人もいますが、私は東京に戻るつもりはありません。たまに上京して落語を披露できるくらいが、ちょうどいいと感じています。
落語会の楽屋など、落語に関わる場所以外では、私が子どもの頃に感じた東京の風情や人情味は、もう薄れてしまったように思うのです。
地方では江戸落語のイメージが強い分、上方落語がもっと全国に広がってほしいと感じます。単に「笑わせる」だけでなく、商人の世界や船場の匂いを描いた噺の魅力が、もっと知られてほしい。
その土地に生まれ育った人ほど、足元の価値に気づきにくいものですが、遠くから来たからこそ、上方の古いものを大事にしたい。そんな思いが、今も僕の中にはあります。
(11月27日 神戸新開地・喜楽館にて)

この日は喜楽館の昼席で『悋気の独楽』を披露された後、お話をうかがいました。
なかでも強く印象に残ったのは、中学生で「上方落語を保存・継承しよう」と志しておられた点です。単なる落語ファンにとどまらず、「自分が担おう」と考えたことが何よりすごい。その思いは高校生以降も具体的な行動となって表れ、漠然とした夢のままで終わっていません。
お話を文章にまとめながら気づいたのは、生まれ育った土地の記憶から、落語家になるまでの歩みが、一筋の物語として語られていることでした。点在するエピソードが、後から振り返ると自然につながっていました。
「その土地に生まれ育った人ほど、足元の価値に気づきにくい」という言葉にも深くうなずかされました。私自身の取材経験でも、シニアになってから初めて故郷の意味を見つめ直す人は少なくありません。春雨さんのこの一言からは、上方落語そのものへの深い愛情が感じられました。これからも、上方落語の発展のために力を尽くしていただきたい。
「期待してまっせ―!」
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。


