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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第三十四回は桂 米輝さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!
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ピアノ会社の社員から落語家へ
(桂 米輝インタビュー)
本名 大谷 輝弥
生年月日 1984年(昭和59)年12月25日
出身地 奈良県大和郡山市
入門年月日 2011年(平成23年)7月7日 師匠「桂 米団治」
公式X @piyopiyoneki
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テレビのお笑い番組が好きで、中学、高校くらいからお笑い芸人になりたいという漠然とした憧れがあった。私はクラスの前に立ってわっとやるタイプではなく、テレビのお笑い番組を家で楽しむ方だった。当時は、ダウンタウンにはまっていて、彼らのビデオやDVDをお小遣いで揃えていた。落語にはそれほど関心がなかった。
関西大学経済学部に入学時、お笑いのサークルは落語研究会しかなかったので入部した。最初の頃は、お客さんの反応も薄いのであまり楽しくなかった。ところがコツを掴んでウケる快感を覚えるとやめられなくなった。
老人ホームや商店街などから声がかかって落語を演じることもあった。私は、落研で外部との交渉窓口役だったので部員の中では数多く学外イベントに参加した。一番多い時には月に15回ほど演じたこともあった。大学の授業よりも落研活動が中心で、1年留年して5年で卒業した。
大学卒業時には、プロの落語家になるかどうか迷っていた。しかし前に踏み出す勇気がなかった。普通に就職活動をしてピアノ会社に入社。ピアノや電子ピアノの販売促進の営業で楽器店廻りをしていた。音楽教室の先生を連れてきて、子供向けのイベントを実施することもあった。出来の悪い社員で営業の成績も良くなかった。上司から「お前からはやる気を感じない」と言われたこともある。
当時は、2団体の社会人落語のサークルに入っていた。休日に素人落語に取り組むことが優先順位の一番だった。そのため仕事にも身が入っていないと周囲は感じていたのかもしれない。大学の時に比べると、回数は減ったものの町内会や敬老会のイベントで演じることもあった。また公民館のホールを借りて、お客さんに無料で来ていただく落語会も催した。社会人になってからは、月に1度舞台に立てればいい方だった。
迷惑をかけると考えたので、ピアノ会社は1年余りで退職。その後入門するまでの1年半はアルバイトでつないだ。派遣会社に登録して、工場で働くこともあれば、引っ越し作業に行くこともあった。
誰の弟子になろうかと思案したときに、ふと桂米団治師匠のことが脳裏をよぎった。もちろん高座は何度も観ていたが、突然師匠に面倒を見てもらおうという考えが降りてきた。入門する3、4ヶ月前だった。
いざ入門しようとバイトを辞めた時に、2011年3月に東日本大震災が起こった。テレビのニュースを見ていて、しばらくは具体的な行動は起こせなかった。
結局、弟子入り志願に動いたのは5月末。その頃、師匠は横浜でのミュージカルの公演の稽古中で、関西での落語の出番はあまりなかった。広島県呉市の落語会に高速バスで行って、初めて楽屋でお会いした。
弟子入りのお願いをすると、師匠は「君の思いを手紙にしたためて私宛に送りなさい」と話してくれた。断られるというニュアンスは感じなかった。大阪での落語会で2度ほどお会いして、とりあえず付き人になることが決まった。

2011年7月7日に正式入門になって、米輝の名前をいただいた。26歳の時だった。米団治師匠の弟子になれた喜びと、正式に落語家としてスタートできる嬉しさが込み上げてきた。
師匠の家の近くにアパートを借りてもらって移り住んだ。団治郎兄さんと互いに交代で、米朝師匠と米団治師匠の二人についた。米朝師匠宅には泊まり込みで入った。当時米朝師匠は80代半ばだった。
米団治師匠には通い弟子だった。朝10時頃に朝ごはんをよばれて、洗い物や掃除をして買い物とかの用事もこなした。かばん持ちなどの仕事のない時は自分の部屋に戻ることもあった。弟子に入る前は、先輩から怒られ倒す毎日が待っていると覚悟していた。しかし米団治師匠は穏やかで、兄弟子も声を荒げて怒ることもなかった。
3年間の年季があけた当初から落語会の前座の仕事が連日入った。いわゆる前座バブルだった。忙しい毎日だったが充実感があった。
独立して3年経った頃に初めて自身主催の落語会を実施した。また桂佐ん吉兄さんに声をかけてもらって、初日にお客さんからお題をもらって、3日目に三題噺を披露するという企画の落語会に参加した。この時に演じた『寿司屋兄弟』というネタが結構ウケた。これ以降は、自身の勉強会で毎回新作のネタおろしをするようになった。新作落語は合計で130ぐらい作成。もちろんボツになったネタも多い。
京都の僧侶、安楽庵策伝(1554-1642)が庶民の間に広く流行した話を集めた笑話集『醒睡笑』(せいすいしょう)がある。それが書籍としてまとめられているので、そこから掘り起こして自分なりにアレンジした噺にも取り組んでいる。
やっぱり落語家になってよかったと思っている。落語家の世界は、みんなあったかい。落語家が落語家に稽古をつける際にも通常はお金が介在することもない。互いに仲間だと感じている。
もちろん、会社員として地道に働きながら社会に貢献している人たちも素晴らしい。その役割も理解しているつもりだ。ただ向き不向きの観点から考えると、やはり私にとっては落語家の方が、フィット感があったということだろう。
現在は、古典落語と新作落語を半々くらいで演じている。今後も研鑽して、「古典落語も一流で、新作落語もめっちゃおもろい」って言ってもらえるのが目標である。
今後は、自分流にアレンジした古典落語や、自分が作った新作ネタを後輩などの他の落語家に演じてもらうことも目指していきたい。
(7/24 神戸新開地の喜楽館にて)

この日の昼席では、古典落語『道具屋』で楽しませてもらいました。昼席後、喜楽館の会議室でお話をうかがいました。
サラリーマンと落語家との違いを、「向き不向き」という観点で話されていましたが、仕事という意味では、これがいちばん大きいのかもしれません。ただ、「向き不向き」はやってみないとわからない面もあるのでデリケートな判断になることもあります。
米輝さんは、2017年の第3回上方落語若手噺家グランプリにおいて、新作落語『イルカ売り』で優勝しています。この噺は舞台で四苦八苦する米輝さん本人をおもしろおかしく描いた新作落語で、何とも言えず惹き込まれます。入門してから6年余りで優勝されているのも「向いていた」からでしょう。また2023年度の第18回繁昌亭新人賞も受賞されています。
米輝さんは、「落語家の世界は、みんなあったかい」と語っていました。私も落語家さんから直接お話を聴いていて、落語界は会社組織などとは違った一つの共同体のような気がしています。伝統芸能として下の世代に繋いでいく役割もそれを後押ししているのでしょう。米輝さんには、ぜひとも落語の良さを次の世代に伝えていってほしいと思いました。
「期待してまっせ―!」。
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。


