ニュース

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第三十二回は露の新幸さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!
----------------------------------------------------------------
ミュージシャンから落語家に
(露の新幸インタビュー)
本名 木谷 安孝
生年月日 1974年(昭和49)年12月15日
出身地 大阪府
入門年月日 2014年(平成26年)11月23日 師匠「露の新治」
公式X @tuyuno_sinkou
----------------------------------------------------------------
小さい頃から、お笑いや落語とは無縁で、小・中学校は野球を続けていた。東住吉工業高校の1年生で野球部を辞めて時間ができたので、ギターを独学で弾いていた。卒業を前に工業高校で学んだ内容以外の仕事をしたくなって、音楽の専門学校に入学した。音響や照明などの裏方の仕事を学ぶ学校だった。これが人生のターニングポイントになった。
学校の非常勤の先生が「裏方の仕事はやりたい人が本気でやっているので片手間では通用しない。ギターを弾くのならミュージシャンを目指したらどうか」と勧められた。
何も分からず。まず楽器店でバイトを始めた。そこに入ってきた後輩が、売れる前のポルノグラフティーの元メンバーだった。彼からスタジオの予約の仕方をはじめ一から音楽のことを教わった。僕が20歳の時だ。初めは、すべてが新鮮で音楽にのめり込んだ。
音楽ではオーディションに合格しないと先が開けない。その練習の意味もあって大阪の劇団で役者の研修生になった。そこで自分がやりたいことを主張するのではなく、「無我夢中、我を無くして相手が求めているものをまず徹底的に受け入れろ」と繰り返し教えられた。
劇団は1年足らずで退団して、引き続き「フリーク」というポップスの2人ユニットでステージをこなしていた。並行して録音した音源をレコード会社に持ち込んで「どうしたらいいと思います?」と聞きまわった。そうしているうちに、退団の半年後の2001年にユニバーサルミュージックからメジャーデビューが決まった。自分のCDが店頭に並んだ時に店の試聴機で曲を聴いた。「これは絶対無理やな」と思った。今まではメジャーデビューを目標にしていたが、ここでは大袈裟に言えば、サザンオールスターズなど売れている方たちがライバルになる。
デビューした日に、2年間一緒にユニットを組んできた相方に電話をした。彼は、とっくにそんなことは分かっていて、「思い出作りでええ。ここまでよく引っ張ってくれたよ。ありがとう」と言葉をかけてくれた。解散したのは26歳の時だった。
当時は、結婚して仕事を探しながらアルバイトをしていた。昔、働いた楽器店の社員が音楽の専門学校の教師をやっていて、「学校で先生をやってくれないか」と声がかかった。29歳から10年間、専門学校の講師になった。
ギターの弾き方のような技術的なことから、どうすれば音楽でキャリアアップできるかなどの相談に対応することもあった。それから5年後の34歳の時に、大阪・日本橋でキャパ30人くらいのライブハウスの経営を始めた。
バンドのサポートメンバーとして、各地のライブハウスにも出演していたので、自分で経営できたら一石二鳥なんじゃないかと考えた。昼間は専門学校の講師で、夜はライブハウスのオーナー。ここが収まりどころかと考えていた。

ある時、ライブを見に来たお客さんから「私が主宰している素人落語会に出てみませんか?」と声をかけられた 。ステージでの弾き語りやトークに興味を持ってもらったのかもしれない。
落語はほとんど聞いたことも演じたこともなかったが、youtubeで米朝師匠の『天狗さばき』を文字起こしして、そのままやった。今から考えると、本当におそれ多い(笑)。
その『天狗裁き』は昼間の会ではかなりウケて、夜はダダスベリ。同じネタでなぜこんなに差が出るのが不思議だった。音楽ではこんなことはない。ここから興味を持ち出して、繁昌亭や動楽亭によく足を運ぶようになった。その時は、昼間の専門学校の授業に活かせないかなどを考えていて、落語の世界に飛びこむつもりはなかった。
その後、たまたま繁昌亭昼席で露の新治師匠の『権兵衛狸』を聴いて、落語家になりたいと強く思った。1ヶ月後、入門志願のために動楽亭の客席にいた。終演後に片付けも始まって今日は無理かなと思った時に、チラシの挟み込みを忘れた露の新治師匠が目の前に現れた。いきなり「弟子にしてください」。師匠は突然のことに驚いたが、近くの喫茶店で話を聴いてくれた。「弟子にはとらないが、落語は教えてあげる」と言われて、やはり無理かと思った。高年齢で家族もいて他の仕事もしている。師匠にも私にもリスクが大きいと感じられたのかもしれない。
しばらくして落語会でお会いした時に、師匠から「ネタをやってみぃ」。当時、繁昌亭の落語入門講座に通っていたので、露の都師匠に教えていただいていた『鉄砲勇助』をやった。新治師匠は「うちの師匠(二代目露の五郎兵衛)の形やな。都姉ちゃんが教えているのも何か縁を感じる」とつぶやかれた。しばらくして師匠から連絡があって弟子入りを許された。2014年11月。39歳だった。
40歳直前で、子供が2人。昼は音楽学校の先生、夜はライブバーの経営者だった。新治師匠から「他の仕事を辞める気はあるのか?」と聞かれて、「もちろん辞めるつもりです」と答えた。「その気持ちがあればそれでいい。他の仕事も落語家新幸としてやりなさい」と弟子修業とのかけ持ちを許してくれた。
ただ、二刀流ならぬ三刀流の生活はやはり厳しかった。ある日、過労状態と見た師匠から「修行が苦行になったらダメだ。十分に睡眠をとってから来なさい」と怒られたこともある。ありがたい言葉でもあった。音楽学校も若い人が育ってくるので、徐々に講師の時間を削減して、ライブハウスもコロナ禍の非常事態宣言が出る前に店を閉めた。
修業を終えた今でも新治師匠は、僕の落語に対して気が付かない視点から一言二言指摘いただくのがありがたい。落語の深みを感じ取る機会になっている。今後も「一旦は我を無くして、相手が求めているものを受け入れる」という姿勢で、納得のいく噺家人生を歩んでいきたい。
(6/12 神戸新開地の喜楽館にて)

喜楽館の会議室で、よどみなく丁寧にお話しいただきました。新幸さんの振り幅の大きいキャリアの変遷に驚きました。なにしろ「工業高校→音楽専門学校→楽器店バイト→劇団で役者研修生→メジャーデビュー→音楽学校講師→ライブハウス経営→落語家」ですから。
40代までは会社勤め一本だった私から見ると、興味あることに行先を柔軟に変更しながら進んでいる新幸さんに羨ましさを覚えました。また「我を無くして、相手が求めているものを受け入れる」というのも、書籍における編集者との関係にも通じることだと感じます。
現在、新幸さんは、繁昌亭にほど近いビルに落語専用フリースペース「猫も杓子も」を管理・運営している。スケジュール管理、舞台設営、掃除なども自ら取り組んでいるそうです。ここでは高座も作っているので、落語の公演や若手の勉強会も開催。またミーティングや各種ワークショップに利用も可能で、人が集える場になっているという。このフリースペースにも新幸さんの個性が反映されているように思いました。
今までのいろいろな経験で培ったものを役立てながら、落語家として益々ご活躍されることを「期待してまっせ―!」
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。


