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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第四十一回は笑福亭 たまさんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!
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落語には笑いの“型”が詰まっている
(笑福亭 たまインタビュー)
本名 辻 俊介
生年月日 1975年(昭和50)年1月6日
出身地 大阪府貝塚市
入門年月日 1998年(平成10年)4月 師匠「笑福亭 福笑」
公式X @Gomaizasa
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小さい頃からテレビのお笑い番組が好きだった。大阪は祝日になると昼からネタ番組(ABCホリデーワイドなど)を放送してることが多く、いとし・こいし、カウス・ボタン、オール阪神・巨人の各師匠方の漫才などを見るのが好きだった。大学生までテレビのお笑いは相変わらず観ていたが、見過ぎて次第にテレビの笑いに飽きていた。
大学3年になると、そろそろ就職を考え始めた。当時は終身雇用が当たり前の時代。20歳過ぎから60歳までの40年間続けられる「一生の仕事」とは何か――そう考えると気が重くなった。
ふとお笑い芸人という選択肢が頭をよぎった。しかし、テレビのお笑いは当意即妙であり、自分にはその瞬発力がない気もし、一方でテレビのお笑いにもマンネリ感も抱いていた。適性も熱意も足らないと思った。
テレビのディレクターやアナウンサーといったマスコミの“裏方”の仕事も良いかと思った。あるいは百貨店のバイヤーになって流行を作るのも面白いかとも思ったが、どれも決め手がなかった。
迷っている中で、お笑い芸人の選択肢も捨てきれず、「落語は古いが、きっとその中に“笑いの型”が詰まっているはずだ。それを勉強してあたかも当意即妙のふりをして喋ればお笑い芸人もできるかもしれない。一応調べるだけ調べとこう」と思った。もちろん当時は落語を全く知らず、「年寄りが聞く辛気臭いもの」とだけ思っていた。それゆえの発想だ。それで就職活動の下調べのつもりで大学3年の終わりに京大落語研究会に入った。

初めて聴いた音源は、三代目桂春団治師匠の『子ほめ』だった。そこにはテレビとはまったく違う物凄い笑いがあった。それが非常に新鮮で、すぐにのめり込んだ。特に師匠の笑福亭福笑の『時うどん』を生で見た時、呼吸困難になるほど笑った。
「一生の仕事」を落語家にしたいと思った。月に二、三回はあちこちの落語会を回った。また京大落研には先輩が残した膨大な音源があり、それもいっぱい聞いた。
4回生の秋には福笑に弟子入りしようと思ったが、落語会の最前列で聞くたびに福笑は酒臭く、他の噺家のマクラから非常に暴力的である話を聞いて不安になった。それでもやはり自分にとって一番面白く、心惹かれたのが師匠だった。「毎日酔うてドツかれても、この人の近くにいれば、落語がどうなってるのかわかるかもしれない。全く教えてくれなくても、自分がこの人から学べばええ」と覚悟を決めた。それに「師匠とは自分が一番好きかどうかで選ぶもの」と単純に思った。
卒業が決まった2月初め、須磨寺の落語会に入門をお願いするために終演後に楽屋に行った。師匠は中トリの出番だったので、出番後すでに帰っていた。ここで諦めたら気持ちが揺らぐと思い、「104」で師匠の自宅の番号を調べて、夕方、電話をかけた。すると、奥さんが出たので「入門したい」旨を伝え、「師匠はいらっしゃいますか」と聞くと「留守です」とのこと。「では夜の8時ぐらいにもう1度かけなおします」ということで、再度かけなおしたら、奥さんが「留守です」との返事。「本日はもう遅いので、明日改めて…」と話をしてると、横から「もうええ!俺が出る!」と師匠の声。・・・「居留守やったんか」とビックリした。
だいぶ酔うた声で「お前、今何してるねん」「大学生です」「どこの大学や」「京都大学です」「●●●●や!●●●●が電話してきとる。ホンマに京大か」「はい、ホンマに京大です」「ホンマに●●●●や!」と叫んだ後、「ホナ、次、心斎橋で創作落語の会がある。○月○日や、お前、その日、大丈夫か」「はい、大丈夫です」「大丈夫ってどういうこっちゃ!」「????ええ」「大丈夫ってどういうこっちゃ!」「あ、行かせていただきます」。「んー、その日、終わった後、話を聞いたるから、それでええか。お前その後、大丈夫か」「はい、大丈夫です」「大丈夫とはどういうこっちゃ!」「あ、すいません。行かせていただきます」
この「大丈夫か?」という質問に「大丈夫です」と答えて、怒られたのは本当にドキドキした。最初は何を怒っているのかもわからなかった。ますます毎日酔うてドツかれると覚悟した。
後日、心斎橋の居酒屋で話を聞いてもらい、見習いとして通うことになった。

その年の4月に入門。23歳だった。実家から師匠の家に通う日々が始まった。意外だったのは、師匠が想像以上に“教えてくれる”人だったことだ。それも非常に論理的だった。
暴力は一切なかった。「殴って落語が上手くなるんやったらナンボでも殴ったるけど、言葉で伝える商売をしてるのに、殴らなわからん奴はその時点でもう向いてない」とその考え方すら論理的だった。また弟子の自分が失敗すると「俺の言い方が悪かった」と反省していた。その言葉を聞くたびに弟子として本当に申し訳なかった。
ほとんど毎日のように稽古をつけてくれた。2年で年季明けを迎えた時、師匠から「これは免許皆伝やない。ここからがスタートや」と言われた。
両親は自営業でビリヤード場を営んでおり、父は全国大会で何度も優勝する腕前。もともと「大学を出たら何をしてもええ」というスタンスだったので、入門への反対はまったくなかった。母は「尊敬できる人から直接教えてもらえるなんてラッキーな仕事や思うわ」と言っている。
今もこれからもずっと変わらないことは「できるだけたくさん笑わしたい」「多くの人の喜ぶ顔が見たい」ということだけだ。師匠の『時うどん』を聴いてお腹がよじれるほど笑った、あの感動をお客様に届けたい。それが、自分の一生の夢である。でもその夢を持ち続けるためには、ある程度のお金を稼がないといけないのも現実だ。お金がないと落語家を続けていけないので、見かけの「やってること」は変化するけど、本質の「やりたいこと」は変わらないと思う。
(10/9 神戸新開地の喜楽館にて)
この日は、私の小・中学校時代の友人と一緒に喜楽館昼席を鑑賞しました。「やっぱりたまさんはおもろいなぁ」と互いに顔を見合わせながら話した後、会議室でお話をうかがいました。数々の賞を受賞されていることも、実際に舞台を観て納得でした。
一番印象的だったのは、大学3年の終わりに「就職活動の下調べのつもり」で京大落語研究会に入部したというエピソードでした。就職を考える時期になると、多くの人は「自分のやりたいことを仕事にしたい」と漠然と考えます。けれども、実際に行動に移せる人はごくわずかで、ほとんどの人は会社に就職する。私自身もそうでした。
たまさんの場合は、実家が自営業だったことも一因かもしれません。会社で採用の仕事をしていた頃、実家が自営業の学生は「働くこと」をより具体的に考えている人が多かったからです。「尊敬できる人から直接教えてもらえるなんてラッキーな職業や思うわ」というお母さんの言葉に、私自身がその通りだとうなずいていました。
これからも、たまさんのオリジナリティのある落語によって、お客さんが呼吸困難になるほど笑かしてください。「期待してまっせー!」
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。


