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トップページ > ニュース >  私が落語家になったワケ   >  第三十九回 タクシーに乗り込み 弟子入り志願 <月亭 遊方インタビュー>

2025/11/17

第三十九回 タクシーに乗り込み 弟子入り志願 <月亭 遊方インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第三十九回は月亭 遊方さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!

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タクシーに乗り込み 弟子入り志願
(​月亭 遊方インタビュー)

 

芸名 ​月亭 遊方(つきてい ゆうほう)
本名 ​斉野 茂
生年月日 1964年(昭和39年)9月4日
出身地 兵庫県西宮市
入門年月日 ​1986年(昭和61年)2月 師匠「月亭 八方」
公式サイト https://yuho-tsukitei.com/

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音楽を通して東京で一人暮らし

最初に笑いに出会ったのは、小学生の頃。ドリフターズの「うんこちんちん」という加藤茶さんのギャグが大流行していて、休み時間になるとみんなで真似しては大笑いしていました。西宮のボーイスカウトでは、夏のキャンプでスタンツ(寸劇)をやることがあって、台本を書いたりするのも好きでした。たぶんこのあたりが、舞台や表現の原点だったのかもしれません。

中学に入って最初に好きになった女の子が、ローリング・ストーンズのファンだったんです。彼女の影響で聴き始めたら、すっかりロックにハマってしまった。高校ではハンドボール部に所属していましたが、放課後は音楽を聴いたり、友達とバンド活動をしたりしていました。音楽に関わる仕事ができたらと漠然と思っていて、何より「一人暮らしがしたい」という気持ちが強かったですね。

明治大学の落語研究会に入部

明治大学に進学して、落語研究会の勧誘を受けました。きっかけは「女子学生と楽しくやれる」という甘い誘い文句(笑)。ところが入ってみると、意外に体育会系で、上下関係も厳しかった。当時は落語のことをほとんど知りませんでした。

明大の落研には五街道雲助師匠、立川志の輔師匠、三宅裕司さんなど、多くのプロが出ていて熱気にあふれていました。私は「上方落語の期待枠」だったのかもしれません。

当時は漫才ブームの影響もあって関西弁というだけでウケました。「おおきに」なんて、西宮では使いもしない言葉を言うだけでコンパが盛り上がる(笑)。

部活動の一環で、新宿末広亭で前座の落語を聴いたときに、どこか違和感を覚えました。何か言葉もテンポも自分にはしっくりこない。ところが東京で同じ頃に聴いた桂朝丸(後の桂ざこば)師匠の「みかん屋」には腹を抱えて笑いました。「これだ!」と、自分には上方落語が合っていると確信しました。

2年生になる頃には、もう本気で落語家を目指していました。関西にいる頃から深夜ラジオで聴いていた月亭八方師匠に惹かれていて、友人が録音してくれた師匠の噺のカセットテープを何度も聴き返しました。心が決まるのに、そう時間はかかりませんでした。

いきなりの弟子入り志願

授業にはほとんど出ずに落研の部室で過ごす日々。2年間で取得したのは4単位。留年が決まったとき腹をくくりました。大学を辞めて落語家になる。退学届けを提出して、師匠のいる大阪に向かいました。

桜橋の交差点で、八方師匠がラジオ大阪から出てきてタクシーを呼ばれたタイミングで、「弟子にしてください!」と声をかけました。師匠は「帰れ」と手で払ったのですが、タクシーに乗った瞬間、私もその後を追うように乗り込みました。「なにすんねん!」と師匠が驚かれるなか、運転手さんに「行ってください!」と言うと、師匠もあきれながら「しゃあないな」という雰囲気になりました。車中で師匠は「明治大学を卒業してから来たらええやないか」と言われましたが、「もう退学してきました」と言うと、さらにびっくりしていました。運転手さんはハンドルを握りながら笑っていましたね。

テレビ番組で年季明けが早まる

タクシーは難波に着き、「思い出作りに入ってみるか」と師匠がなんば花月の劇場に連れていってくれました。兄弟子が劇場を案内してくれて、師匠から「明日も来るか」と言われて毎日通いました。そして1986年2月、21歳で正式に入門となりました。

師匠のお母さんが当時78歳で大阪の福島で独り暮らしをしていました。私がいれば安心だということで2階に住み込んだのです。一階でお母さんと師匠の奥さんがお好み焼き屋をやっていたので、家に帰ったら手伝いでよくキャベツを切っていました。

入門して1年8ヶ月で、朝日放送の『わいわいサタデー』の「帰りたい帰れないコーナー」のオーディションに受かりました。師匠に相談すると「チャンスやから行ってこい」と背中を押してくれて、それがきっかけで年季明けが早まりました。ロケではディレクターと二人だけで、ワニが出るようなタイのジャングルに3か月滞在しました。ボーイスカウトで覚えたロープ結びなどが役に立つとは思いませんでした(笑)。

テレビ、ラジオの仕事はあったが

番組の視聴率も良く、帰国後はテレビやラジオの仕事が増え、レギュラー番組も持たせてもらいました。バブルの時代で、仕事は途切れることがありません。街で声をかけられたりして、すっかり勘違いしていましたね。

でも、ふと気づいたんです。自分の力量が追い付いていないことに。落語にしっかり取り組んでいる後輩たちはどんどん上手くなっている。テレビで話しても周囲に比べて瞬発力が足りない。どうすればいいのか悩んでいたとき、桂三風(現・五代目桂慶枝)兄さんに「新作落語を作ってみたらどうや」と言われました。26歳の頃です。

初めて作った新作落語はまったくウケませんでした。打ち上げで落ち込んでいたら、桂花枝(現・桂あやめ)姉さんが「面白いことを落語にしようなんて思うと、意外とできへんねん。腹立つこととか、失敗したことの方が落語になりやすいで」と言ってくれました。その言葉通りに、当時仕事でむかついていた人を題材にしたら一晩で書けて、2回目の高座で大ウケ。そこから、新作落語の仲間に入れてもらいました。

古典落語の深みに気づく

30代は新作落語中心で取り組んできました。40代半ばで結婚し、弟子もできた頃から、古典落語に対する見方が変わってきました。面白さだけでなく、作品の持つ「骨格」や「深み」に惹かれるようになったのです。古典を理解していると、新作も作りやすい。古典落語のパターンは無数にあるので、構成や話の運びをノートにまとめたり、本に赤線を引いたりして勉強しました。46歳からの4年間は古典の稽古にも集中し、50歳で動楽亭にて自分の古典落語の勉強会を始めました。新作に取り組んでいる間も、師匠や先輩方に古典落語のお稽古でお世話になってきましたが、それらがすべてつながるような感覚がありました。

落語の技術ももちろん大切ですが、やはりお客さんの心を揺さぶれるかどうかがポイントでしょう。思い起こせば、大学1年生の時に聴いたざこば師匠の噺は大笑いするとともに、演じている師匠の気概が伝わってきたので上方落語に目覚めたのです。

かつては「日常の笑い」をテーマに“カジュアルラクゴ”を身上としてきましたが、還暦を迎えた今は、古典落語を自分流にアレンジ&カバーして、本寸法の古典とは少し違った味わいを届けたい。それを「新古典派宣言」と標榜するつもりです。これからも自称“高座のロックン・ローラー”として、落語の世界を歩んでいきたいと思っています。
(9/4 神戸新開地の喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

この日の喜楽館昼席では、遊方師匠が『たいこ腹』をトリで披露。鍼を覚えたての若旦那が幇間(たいこもち)を腕前の実験台にするという噺を大熱演でした。またこの日は師匠の誕生日で、夜席の準備の直前まで語っていただきました。感謝感謝です。

一番印象に残ったのが、弟子入りを願って八方師匠の後ろから一緒にタクシーへ乗り込んだ場面。これまでにもさまざまな弟子入りエピソードを聞いてきましたが、あの行動は間違いなく最も“ロック”な志願のかたちでした。

40代半ばになって古典落語をあらためて見直した、というお話にも深くうなずかされました。人はある年齢に達すると、成長だけを追うのではなく、それまでの人生を統合しようとする姿勢に変わるのではないでしょうか。

遊方師匠の「新古典派宣言」が新たなエポックとなり、その思いがお客さんにしっかり伝わっていくことを願っています。「期待してまっせー!」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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