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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第三十三回は桂 米紫さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!
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映画監督志望から落語家に
(桂 米紫インタビュー)
本名 林 嘉晃
生年月日 1974年(昭和49年)3月20日
出身地 京都市
入門年月日 1994年(平成6年)3月16日 師匠「桂 塩鯛」
公式X @beishi_katsura
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私は、中学生の頃から映画監督になると自分で決めていた。中学から高校にかけて、京都市内のあちこちの映画館を自転車で廻って鑑賞した。京都文化博物館では、溝口健二、小津安二郎、黒澤明などの邦画作品をそれこそ浴びるように観ていた。
ヒット作は友達を誘っていくが、過去の名作や愛好家が評価する作品は、一人でスクリーンに対峙していた。学校の勉強やクラブ活動よりも、映画でいろいろなことを学んだ。映画館が学校みたいところがあった。テレビやビデオなども合わせると年間で400本くらいは観ていた。
一般の会社への就職は全く考えていなかった。高校卒業後に、京都・太秦にある松竹撮影所の「KYOTO映画塾」に入塾した。映画の制作スタッフを育成するために開講した2年間の私塾で、監督、脚本、撮影などのコースがあった。
ただ当時映画は過渡期に入っていて、松竹撮影所も映画の撮影はなく、テレビドラマの『鬼平犯科帳』を撮っているくらいだった。助監督から年季を積んで映画監督になるというルートが崩れかけていた。映画塾も「自分たちでお金を貯めて映画を撮りなさい」というスタンスになっていた。しかしフィルムやその現像にものすごいお金がかかる。カメラマンや照明担当は就職もできるが、監督志望では次のステップが見えなかった。
「KYOTO映画塾」に通っていた頃に、映画の勉強になると思って、お芝居や狂言、歌舞伎などの古典芸能などを観ていた。山田洋次先生も映画以外の芸能にも触れなさいと勧めていた。
落語を初めて生で観た時に、こっち向いて、あっち向いて喋ると会話しているように見える。見台を叩くと場面が転換する。これは映画のモンタージュ技法(カット割り)だと直感した。しかも座布団に座っているだけで、演出から脚色まで全部できる。
そこから落語にはまっていった。シナリオ的にも滑稽噺があれば、人情噺もあって多種多様だ。それ以降は寄席を観て廻った。結局、「KYOTO映画塾」は1年で辞めて、落語家になると決意した。
桂塩鯛師匠(当時、桂都丸)は京都の出身で、市内でよく落語会を催していた。1番観る機会も多かった。また私は母子家庭だったので、塩鯛師匠に理想の父親像に近いものを感じていた。弟子になるのならこの人だと決めていた。
京都での寄席の終了後、弟子入り志願。師匠は私の話を聴いてくれて、「ちょっと相談せなあかん人があるから」ということで、ひと月してから連絡が来た。2週間の見習いを経て弟子入りが決まった。1994年3月、19歳だった。
3年間は通い弟子。かつての映画監督と助監督もやはり師弟関係だった。その関係にも憧れていたので、忙しい日々だったが充実して過ごしていた。
毎朝、京都から茨木にある師匠の家に朝8時半に行く。何かあっても間に合うように2本早い阪急電車で最寄り駅に着き、近くの神社で時間をつぶして8時27分にピンポンする。この生活を何ヶ月か続けていた時に、「落語家やったらな、週に一遍ぐらい、頭に寝癖をつけて遅刻しましたくらいの方が可愛いぞ」と師匠に言われたことがある。今の私からでは想像できないかもしれないが、生真面目で大人しかった。なにしろ学生時代は映画館の暗闇で1人映画を見るのが好きな人間だった。修行はその殻を破る期間でもあった。

今は、例えば『まめだ』をネタにかける時には、すでに絵コンテができている。ズームアップになったり、ヒキになったり、またこのシーンは手持ちカメラで撮るとイメージして演じる。もちろんどれだけお客さんに伝わっているかはわからない。ただお客さんも噺を聴きながら想像しているので、語りの中でそれをどう作っていくかになる。
また「今日の旦那は、田村高廣でいこう」とキャスティングも自分でやれる。ギャラもいらない。全部1人でできるのがすごく楽しい。映画監督よりもオールマイティかもしれない。
お芝居や演劇にも興味があったので、年季が明けてからは小劇場の芝居に出演するようになった。演劇をやってすごく勉強になった。たとえば、6,7回の公演がある時に、あるベテランの役者さんは、私がセリフを言うと、毎回異なる反応を返してくれた。怒る時もあれば、普通に受け入れてくれる時もある。相手の玉の投げ方が変わるから、こちらも返し方を変えなければならない。
落語家は1人で演じるので、ついついネタの相手役に球を投げずに喋ってしまうことがある。しかし落語も一緒で、登場人物から受け取ったものをそれに応じて相手に返さなければならないことに気が付いた。ただ、小劇場の芝居では、経済的には恵まれないので、年季が明けてから10年間は懐具合は厳しかった。
また私が生真面目な分、塩鯛師匠に少し喋りにくい感じもあった。「10年経ったら弟子とはいえライバルやし、仲間みたいなものだ」と言って、師匠の方から降りてきてくれた。ずっと私のことを見ていただいていたのだと嬉しかった。2010年8月に、桂都んぼから、4代目桂米紫を襲名した。
落語家としての年数を重ねるたびに、30代の頃より40代、40代の頃よりも、51歳になった今の方が面白くなっている。多分、映画と演劇という2つのバックボーンの上にある落語の芽が少しずつ育ってきているからかなという気がしている。
現在、年に一回、茨木市市民総合センターで、『茨木コテン劇場~古典落語とクラシカルシネマ~』を開催している。名作映画と落語をコラボした企画。2025年7月は、映画は、『道』(1954/イタリア)、落語は私が『たちぎれ線香』を演じる。映画の簡単な解説を毎回私がやっている。これが本当に楽しい。チラシにジョン・ウェインと私の顔が並んで載っていたこともある。
私のところにお稽古に来てくれた若手には、「ここは僕はカメラで考えてんねん」という話をすることもある。自己満足ではなく、自分なりの落語をお客様にきちんと受け入れられるように演じていくつもりだ。師匠や先輩方に教わったことを次の世代にうまくバトンを渡していきたい。
(6/19 神戸新開地の喜楽館にて)
この日は、喜楽館2階の楽屋でお話をうかがいました。終始楽しそうに語ってくれた米紫さんの傍にいると、こちらまで元気になってきました。
これまで30人の「落語家になったワケ」を聞いてきました。お笑いが好きで落語界に入る人が大半ですが、映画監督を志望して落語家に転じた人は異色でしょう。「落語は映画を先取りしている」との米紫さんの説明には、なるほどと腑に落ちました。
米紫さんの映画の話を聴いているときに、この地元新開地で映画を観まくった淀川長治さんのことが頭に浮かびました。「映画が好きで好きでたまらない人」からの連想です。就職も全く考えずに、「映画が学校だった」なんて羨ましすぎます(もちろん、反面で大変なことも多かったでしょうが)。
お話を聴いた翌月、米紫さんの『遊山船』(ゆさんぶね)を鑑賞しました。登場人物のやり取りが、映画のカット割りのように展開する様子が頭に浮かびました。今後も映画と演劇という2つのバックボーンをもった落語を大きく花開かせてください。
「期待してまっせ―!」。
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。


