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トップページ > ニュース >  私が落語家になったワケ   >  第四十五回 「はんなり、まったり、ほのぼのと」 <​笑福亭 鶴二インタビュー>

2026/02/09

第四十五回 「はんなり、まったり、ほのぼのと」 <​笑福亭 鶴二インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第四十五回は笑福亭 鶴二さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!

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200人のお客さんを集めることが目標
(笑福亭 鶴二インタビュー)

 

芸名 笑福亭 鶴二(しょうふくてい つるじ)
本名 ​上田 忠正
生年月日  1968年(昭和43)年3月30日
出身地 大阪市生野区
入門年月日  1986年(昭和61年)3月1日 師匠「六代目 笑福亭 松鶴」
公式X @tsuru2chan

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『道頓堀アワー』の松竹の芸人さんに魅了される

私が正式に入門したのは1988年3月のことです。師匠・六代目笑福亭松鶴はその年の9月に他界しました。実はそれより以前、中学3年生だった1982年に一度弟子入りを志願しています。それ以来、折に触れて面倒を見ていただきました。

小学校時代はお笑い番組の全盛期。土曜日に学校から帰ると、吉本新喜劇と『道頓堀アワー』(朝日放送テレビ)を続けて観てから友達と遊びに行くのが定番でした。

中学1年のゴールデンウィークには、貯めたお小遣いを握りしめ、初めて道頓堀の「角座」へ向かいました。トリにかしまし娘先生、中トリに宮川左近ショー師匠。さらに正司敏江・玲児、ちゃっきり娘、レツゴー三匹、ゼンジー北京……。テレビで観ていた師匠方が次々と舞台に現れる。その面白さと勢いに、圧倒されたのを覚えています。

たった一人で、1000人の客を沸かせる衝撃

落語のことはまだほとんど知りませんでしたが、その時、客席で配られた一枚のチラシに目が留まりました。「5月31日 特選落語会」の案内でした。

当日、満員の角座。トリ前の鶴光兄さんが『手水廻し』で爆笑をさらい、続いて、師匠が怖い顔で出てこられて、いきなり演目『らくだ』に入りました。約45分後、「おなじみの『らくだ』でございます」と結んだ瞬間、一呼吸置いて、会場が割れんばかりの拍手に包まれました。

「たった1人で、1000人ものお客さんを喜ばせる仕事って、すごいな」。その時の衝撃が、私を落語へと引き込んでいきました。

「ほな休みの日だけ、おっちゃんとこに来るか」

それからは、テレビやカセットで落語を聴き漁る日々。実家は大阪市生野区の寿司屋でしたが、師匠の娘さんと面識のあるお客さんが「そんな落語好きな中学生がいてんのか」とつないでくれて、中学3年生の6月、母と一緒に師匠に会わせていただくことになりました。

その場で弟子入りを志願すると、師匠は「兄ちゃん、言うとくけどな、噺家なんて食われへんで」と一言。 中学生ですから生活の厳しさなど想像もつきません。ただ「よろしくお願いします!」とお願いすると、「高校だけは行っときや。ほな、休みの日だけおっちゃんとこに来るか」と声をかけてくださいました。嬉しくて、天にも昇る心地でした。

「鶴児」(つるじ)の名をいただいた。

それからは休日や長期休暇のたびに師匠宅へ通い、兄弟子と一緒に掃除や食事の手伝いをする日々が始まりました。当時は少し引っ込み思案でしたが、通い出すと友達の前で小咄を披露するようになり、人生が変わり始めた実感が湧きました。

朝8時半に師匠宅に入り、夕方6時に帰るのが基本。弟子は私を含めて8人。近所のアパートに住む兄弟子たちが交代で師匠宅に泊まり込んでいました。

高校1年の時、「お前はまだ子どもやさかい、児童の『児』で『鶴児』や」と名前をいただきました。喜んでいると、「来週の笑福亭の若手落語会に出してもらえ」と師匠。驚いて「まだ落語を何も教わっていません」と答えると、「なんでもええさかい、覚え!」と怒られました。

ほろ苦い、高校一年生の初高座

上方落語協会の事務員さんに相談し、演目は『平林』をやることになりました。3代目桂春団治師匠のカセットを借りて、書き起こして必死で覚えました。

会場は南海電鉄・粉浜駅近くの和室。トップバッターの私は緊張で頭がいっぱいでした。それに追い打ちをかけるように兄弟子から「マクラ(導入)も振れ」と言われ、さらに混乱。見台を叩いて本題に入ろうとした瞬間、ネタが完全に飛び、絶句してしまいました。

舞台袖から鶴志兄さんに「初めからやり直せ!」と言われて、何とか最後まで喋り終えました。お客さんは20人ほど。母親とおばさんが花束を持って来ていましたが、二人とも目を伏せていました。

師匠との別れと、先輩方の慈愛

近畿大学附属高校を卒業した3月、「今日から本修行をさせていただきます」と17歳で正式に入門しました。しかし師匠は5月に体調を崩され、9月に逝去。本格的な修行が始まった矢先でした。

そこから私を育ててくれたのは、兄弟子や諸先輩方でした。高校時代から松葉兄さんに稽古をつけていただき、師匠亡き後も膝稽古で10本ほど教わりました。他の兄弟子からも一席ずつは教わり、皆が私にとっての師匠でした。また、林家染丸師匠には三味線と落語の双方でご指導いただきました。本当に多くの先輩方に支えていただいたと感謝しています。

当時は、今のように繁昌亭も喜楽館もない時代。高座の機会は限られていましたが、バブル景気のおかげで司会などの仕事があり、バイトをせずに何とかなりました。

「きつねうどん」のような芸人に

30歳の節目に筆頭弟子の仁鶴師匠に相談し、「鶴二」へと改名しました。同年、「平成10年なにわ芸術祭新進落語家競演会」で新人奨励賞をいただきました。

これを機に、鶴志兄さんから「お前、30やし縁起ええねんから、ワッハホールで独演会をやってはどうか」と声をかけていただき、そこから毎年、独演会を続けています。

来る2026年4月19日には、大阪のあべのハルカス・近鉄アート館にて「40周年記念独演会」を開催させていただきます。

サインの色紙には、好きな言葉として「はんなり まったり、ほのぼのと」と書いています。滑稽話でも人情話でも、「ああ、大阪やな」「松竹新喜劇のような温もりやな」と感じていただける雰囲気が好きなんです。

私には、あまり過激な噺は似合わないと思っています。以前、お客さんから「鶴二さんの落語は、きつねうどんみたいやね」と言われたことがあります。それがとても嬉しかったのです。カレーうどんや天ぷらうどんのような華やかさも良いですが、私は上方の粋がじんわりと滲む、きつねうどんのような芸人でありたい。そう願っています。
(12月25日 神戸新開地・喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

お話の冒頭で、『道頓堀アワー』に登場していた、かしまし娘、宮川左近ショー師匠などの名前が次々と出てきたときには、驚くとともに嬉しくなりました。私が小さい頃に、新開地にあった神戸松竹座で観た芸人さんばかりだったからです。レツゴー三匹の逢坂じゅんさんに銭湯であったことも思い出しました。

この日の昼席では、笑いの多い新作落語「青い瞳をした会長さん」を披露されました。ネタの選択は、はじめから決めていたのか、それとも客席の雰囲気をみて決めるのかを鶴二さんに聞いてみました。初めは古典を高座にかけるつもりだったが、客席が大人しい感じだったので、新作に切り替えたのだそうです。やはりネタ選びもお客さんの状況に応じて柔軟に対応されるのだと思いました。

鶴二さんが色紙に書かれている「はんなり、まったり、ほのぼのと」という雰囲気そのままだと感じながらお話を聴いていました。舞台でも取材でも鶴二さんの謙虚さが本当に伝わってきました。これからも美味しいきつねうどんをお客さんに提供してください。
「期待してまっせ―!」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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