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2026/01/26

第四十四回 200人のお客さんを集めることが目標 <​桂 二豆インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第四十四回は桂 二豆さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!

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200人のお客さんを集めることが目標
(桂 二豆インタビュー)

 

芸名 桂 二豆(かつら にまめ)
本名 ​古川 達己
生年月日  1994年(平成6年)6月1日
出身地 兵庫県芦屋市
入門年月日  2017年(平成29年)5月18日 師匠「桂 米二」
公式X @Katsura2mame

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母親から渡された落語のカセット

僕は兵庫県芦屋市の出身で、小さい頃は『エンタの神様』や『笑いの金メダル』など、漫才やコントのテレビ番組が毎日のように流れていた。僕だけでなく、クラスのイチビリ(目立ちたがり屋)の多くがお笑いに夢中だった。

小学5年生のとき、テレビ番組『笑点』で落語家の大喜利コーナーに興味を持った。

「落語ってどんなもんなん?」と母親に聞くと、米朝師匠の『桃太郎』などが入ったカセットテープを3本渡された。それが落語との最初の出会いだった。

中学部、高等部、大学まで、ずっと関西学院に通った。中学ではタッチフットボール、高校では柔道部に所属。その傍らで落語はすでに生活の一部となっていた。通学の帰り道には携帯で落語を聴き、学校の図書館にある落語CDを借りるなどしていた。

高校3年生になると、アルバイトで貯めたお金でチケットを買い、米朝一門会や繁昌亭に足を運ぶようになった。

桂米二師匠に惹かれる

大学1回生のとき、落語研究会に入部。そこから本格的に落語を演じ始めることになる。実は、それ以前から、中学3年の弁論大会では「将来、落語家になりたい」というテーマで話し、高校3年の文化祭では柔道着姿で落語を披露したこともあった。

落語研究会は1年で退部し、2回生からは関学の古典芸能研究部へ。1950年創部の伝統ある研究会で、桂米團治師匠や落語作家の小佐田定雄さんも先輩にあたる。落語だけでなく、歌舞伎や文楽など、さまざまな古典芸能に触れることができたのは、自分にとって大きな財産だと思っている。

当時から必ずしも「落語一本」ではなく、惹かれたアーティストを3人挙げるとすれば、米朝師匠、シンガーソングライターの奥田民生さん、そしてショートショートで知られる作家・星新一さんだ。

大学2回生のとき、繁昌亭で後に師匠となる桂米二の『代書』を聴いたのが転機になった。35分の長講だったが、完全に惹き込まれた。それ以降は師匠を追いかけるようになり、学生料金500円だった師匠の落語会に通い詰めた。

高座から伝わってくる落語への姿勢、さりげなく入るくすぐりに「ええなあ、ええなあ」と心を掴まれた。一門のトークコーナーで、二乗兄さんや二葉姉さんと語る姿からも、師匠の人柄がにじみ出ていた。「筋の通った、高座で見るままの人だ」と感じた。

大学卒業と同時に「見習いから」

4回生になり、教員免許を取得。就職活動では塾講師の内定ももらったが、落語家になる決意はすでに固まっていた。母親からは、「大学まで出ること」、「教員免許を取ること」の二つの約束を果たさなければ、落語家になることを許さないと言われていた。

卒業直前の2017年2月19日、京都府立文化芸術会館での米二一門会終了後、師匠に「弟子にしていただけませんでしょうか」と願い出た。返ってきたのは、「親は了解してくれているのか? 一旦、落ち着いて考えてみて」という言葉。否定的なニュアンスではなかった。

翌3月12日、大津での落語会の打ち上げで改めて話を聞いてもらって、「見習いから」ということになった。その後、5月18日に「二豆」という名前をいただき、正式に入門した。師匠61歳、僕22歳。比較的スムーズな入門だった。

稽古で気が付いたことをスマホに録音

見習いの間は、着物のたたみ方や鳴り物など、基本的なことを二乗兄さんに教わるとともに、派遣社員としてコールセンターで働いていた。

入門後は、師匠の家から自転車で10分ほどの京都市左京区のアパートに住み、朝8時からスーパーで品出しのバイト、昼過ぎに師匠宅へ行って掃除や洗い物をする毎日。師匠の仕事場についていくこともあった。バイト先が融通を利かせてくれたので、落語中心の生活を送ることができた。

稽古では、師匠から直接指導を受け、「次までに覚えてこい」と言われる。稽古が終わると、師匠の家を出てすぐ、注意されたことや自分の反省点を一気にスマホへ吹き込んだ。

また、他の師匠の前座を務めた日は、帰りの電車でその日の番組内容をレポートとして師匠に送信した。「どう感じたか」「どんなくすぐりがあったか」「客席の反応はどうだったか」。観て、考えて、言葉にすることを求められた。

年季明けはコロナ禍に直面

弟子期間はちょうど3年。弟子の最後の頃はコロナ禍の真っただ中。師匠の家にもほとんど行くことができなかった。2020年、一門がリモートで集まった際に、師匠から「今日は二豆が年季明けです」と紹介されたが、あまり実感がなかった。

その後も緊急事態宣言が繰り返され、仕事はほぼゼロ。バイトで生活をつなぐ日々だった。通常なら、年季明け後には仕事が増える「前座バブル」があるが、それもなし。先輩方が「気の毒やな」と後になって仕事を回してくれたが、正直きつかった。入門から6年目あたりで、ようやく忙しくなってきた。

200人のお客さんを集めることができる噺家に

現在は、入門して9年目になる。今後の目標を聞かれたら、いつもこう答えている。

「独演会で、200人のお客さんを集められる落語家になること」。

たとえば、喜楽館に来てくださるお客さんに、日々の高座で「落語って面白いもんだ」と感じてもらうことが何より大切だ。その積み重ねの先に、「二豆は面白い」というよりも「二豆の落語は面白い」と思って、落語会にまた足を運んでもらえる関係を築きたい。

そのためには、自分の中に時間をかけて火薬を詰めていかなければならない。火がついた瞬間にパチンとはじけるには、蓄えがないとどうにもならない。

地道に、愚直に。自分が好きで、面白いと思う落語を投げ続け、それを拾ってくれるお客さんを少しずつ積み上げて増やしていく。それが僕の夢であり、目標だ。
(12/11神戸新開地の喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

喜楽館昼席で『桃太郎』を披露された後に、会議室でお話しをうかがいました。一番印象に残ったのは、二豆さんの口調が、すでにベテランの落語家さんのように聞こえたことです。若い外見とのギャップに、正直驚きました。

「子どもの頃からそうだったんですか?」とストレートに聞いてみると、小さい頃から「おにぎりのことを、にぎり飯って言ってみたり」といった、おっさんくさい喋り方が好きだったそうです。

「好きだから真似する。真似したら、そのうち自然にそれが出てくる。その繰り返しで、今の喋りが出来上がったんでしょうね」。そう笑いながら答えてくれました。

もともと、落語口調のリズムが音楽好きな二豆さんに合っていたのかもしれません。

「独演会で、200人のお客さんを集められる落語家になること」は、非常に具体的な目標ですが、決して簡単ではないでしょう。

それでも、落語家になって9年目、30代前半の二豆さんは、まだまだ成長途上にあります。ぜひ目標を達成できるよう、これからも精進してください。
「期待してまっせー!」。

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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