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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第四十二回は桂 笑金さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!
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師匠は心の中に生きている
(桂 笑金インタビュー)
本名 京藤 峻輔
生年月日 1992年(平成4年)7月4日
出身地 京都府
入門年月日 2017年(平成29年)12月13日 師匠「桂 三金(2019年11月9日没)」
公式X @mezirimadeatui
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小さい頃からお笑いが大好きで、文字通りテレビにかじりついて育った。中学から大学までは同志社で過ごし、中学・高校時代はサッカー部で、仲間とちょけ合っては笑いの絶えない毎日だった。
大学に入ってからは、さらにお笑いにのめり込んでいった。漫才コンビも好きだったが、とりわけ心を奪われたのが、村上ショージ師匠と新喜劇の内場勝則さん。この二人の存在は、僕にとって特別だった。
そして大学4回生の4月、吉本興業が裏方スタッフや作家を育成するYCC(よしもとクリエイティブカレッジ)に通い始める。当時は、自分の頭に浮かんだ「面白い」を形にしたいという思いが強く、表に立つよりも裏方が向いていると感じていた。お笑いスタッフとしての学びは刺激に満ち、漫才台本の制作に取り組むなど、毎日が充実していた。
大学卒業後、吉本興業の契約社員となり、毎日放送と合同出資している制作会社に出向という形で働き始めた。最初は新喜劇の番組スタッフだった。池乃めだか師匠の芸能生活50周年記念の特番では、準備のために毎日放送の資料室でめだか師匠の過去の映像や資料をひたすら見ていた。その時に、「もう自分でもやりたい!」という思いが強くなった。
翌年にはNSC(吉本総合芸能学院)に入学。YCC もNSCも楽しく過ごすことができた。ただNSCを卒業してコンビを組んでいたが、途中でうまくいかなくなった。人と組むより一人の方が向いているかもしれないと気づいた。落語のネタはもちろんのこと、寄席の雰囲気も好きだったので、きちんと落語に向き合ってみようと考えた。
それからは取り憑かれるように落語に引き込まれた。過去の音源を聴いて、各地の落語会に足繁く通う日々。『さくらんぼ(あたま山)』や『胴切り』などの世界観を座って表現できる“落語の可能性”に心を奪われた。「ここでやらなければ後悔する」と確信した。
弟子入りを考える際、吉本興業の所属で古典も新作もやる師匠のイメージが頭に浮かんだ。だが不思議なことに、調べれば調べるほど、後に師匠となる「桂三金」の名前ばかりがバーっと目に飛び込んできた。他の師匠には意識が向かなくなり、まるで導かれるように師匠の落語会をすべて観に行くようになった。
当時、師匠は関西大学で非常勤講師を務めていた。その授業の終了後に、大学の廊下で「弟子にしてください」と申し出た。すると師匠は「もう弟子入りに来るだろうと思っていた」と笑ってくれた。各地の師匠の落語会に足を運んでいたので顔を覚えられていた。
その直前、一週間ほど前に大師匠である六代目桂文枝から、「お前は弟子をとらへんのか」と問われて「自分も弟子をとっていいんだ」と思ったと後から聞いた。「前向きに考える」と返答をもらい、後日、両親を交えて話し合い、正式に入門が決まった。
大学在学中にYCCに通っていた時には両親は芸界に良い印象を持っていなかった。しかし落語家なってからは大いに応援してくれている。

入門後は、覚えること、学ぶことも多いが楽しい環境で修行に取り組んでいた。師匠のかばん持ちとして仕事場に同行することもあれば、上方落語協会の会館でよく稽古をつけてもらった。ところが入門して2年目の2019年に師匠は急逝した。
お通夜の日は、この喜楽館でうちの師匠と同期の噺家が出演する落語会があった。自分が前座で、師匠がトリの予定だった。当時の桂文鹿師匠が、「なぁ笑金、三金の代わりはお前しかおらんと思うんやけど、どうする」と語りかけてくれた。「師匠なら『行け!』と言うはずだ」と思い、「やらせていただきます」と答えた。
僕は師匠に初めて稽古をつけてもらった『つる』で高座に上がった。事情を知る客席や下座からすすり泣く声が聞こえ、自分も涙をこらえながら最後までやり切った。終演後、吉弥師匠の車でお通夜の会場へ向かった。
芸歴25年、48歳で人生の幕を閉じた師匠は、身長170センチ弱、体重120キロの大きな身体で、とにかく食べることが好きで大食漢だった。
葬儀では、棺桶の中で師匠は高級なお肉、大きなケーキ、ポテトチップスなどのたくさんの食べ物に包まれていた。師匠の身体と大量の食べ物のあまりの重さに会館のベルトコンベアでは運べず、急遽人力に変更。このアナウンスで会場の人々は大爆笑になった。私を含めた一門の人たちが大勢で歯を食いしばりながら必死に運び、この様子を見た参列者は輪をかけるようにまた爆笑。
さらに骨上げでは、大師匠・六代桂文枝が「これは何や?」。その骨ではない何かをつまみながら言うと、師匠のお母様が「ケンタッキーです」と答えた瞬間、自分は膝から崩れ落ちた。悲しみの渦中に現れる、信じられないほど可笑しい会話。悲しむ暇を与えてくれない師匠に感動した。
まるで一世一代の芸を見せてくれているような、唯一無二のお葬式。たくさん食べる太ったキャラクターを最後の最後まで命をかけて貫き、周りを明るく笑顔にさせる。これぞ究極の芸だと得心した。
師匠が亡くなって、大師匠からは、「私の預かり弟子にするけれども、三金一門として自由にやっていいから」とおっしゃっていただいた。兄弟子の三語兄さんには教育係のような形で支えていただき、諸先輩方にもいろいろご指導・ご配慮をいただいた。またうちの師匠の人との繋がりにも助けられている。師匠のご家族の方も、私の高座をよく観に来ていただいている。「師匠はまだずっといてはるような気がしてならない」。
今後は、古典落語はもちろんだが、加えて三つの方向性で新作にも挑むつもりだ。
1 妖怪落語の確立
土地に根ざした伝承として残っている茨木市の茨木童子・長野県の鬼女紅葉・酒呑童子の子である鬼童丸と極悪人と呼ばれた袴垂保輔の噺など、妖怪落語をつくって演じている。もっと妖怪の噺をつくりジャンルを確立したい。そのために妖怪検定の中級を取得し、上級に向けて勉強もしている。
2 バカバカしいギャグ漫画のような噺
乳首が宇宙まで伸びる、へそが臭すぎる物語など、そんなバカバカしい世界観の落語も作っていきたい。
3 誰も救われない、気味の悪い話
逆に、後味の悪さや気味の悪さだけが残る噺も作りたい。そうした話を好むお客さんも少数だがいる。
提供できるジャンルを広げて、お客さんに様々な世界を届けられる落語家になることが自分の目標だ。
(11/6 神戸新開地の喜楽館にて)

10月に東京の柳家喬太郎師匠が喜楽館に登場した際の夜席で、「男根50メートル」という笑金さんの噺を聴いて、あまりのバカバカしさにぜひ話を聴きたいと思ってインタビューをお願いしました。
会議室では、若い時からの気持ちの動きを丁寧に語っていただきました。
桂三金師匠のお通夜の日の喜楽館での涙、葬儀の日の食べ物にまつわる爆笑。泣き笑いの瞬間にこそ、人の心が本当に開くのではないでしょうか。笑いは心を軽くし、涙は心を深くする。笑金さんのいう究極の芸だったのでしょう。
実は、私はかつて桂三金師匠の奥野君シリーズの新作落語のファンで、落語会にも時々通っていたので、よりリアルに感じられました。
笑金さんには、古典も新作も存分に取り組んでいただき、師匠にも負けない個性を発揮して、多くのお客さんを喜ばせてください。「期待してまっせ―!」。
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。


