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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第五十九回は月亭遊真さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!
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どんな場所でも笑いの取れる落語家に
(月亭遊真インタビュー)
本名:谷山 豊
生年月日:1988年(昭和63年)5月4日
出身地:大阪市
入門年月日:2015年(平成27年) 3月15日 師匠「月亭遊方」
公式X: @uma_tsukitei
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ラグビー部から落研に
大阪の生野区で生まれ、中学に上がってから、ラグビーを始めました。大阪は中学でもラグビー部があるほど盛んな土地柄です。身体が大きかったこともあって、ポジションはナンバー8(エイト)。天王寺高校に進んでもラグビー部に入り、中高6年間みっちり続けました。高校の終わり頃から、なんとなくお笑いに興味を持ち始めていきました。
関西大学法学部に進んで、落研の新入生歓迎公演を見に行きました。最初はあまり興味が湧かなかったのですが、何度か足を運ぶうちに、「落語って面白いな」と思えるようになりました。入部すると、当時は昼休みも返上で練習するようなストイックな雰囲気がありました。落語の稽古も高座に上がるのも楽しくて、教室よりも落研の部室が中心の生活でした。
ところが、2回生で大学を中退。特に学びたいこともなく、このまま勉強して就職するという道がどうしてもしっくりこなかった。お笑いには興味があったので吉本総合芸能学院(NSC)に入りました。親は反対でしたが、「本人がそう言うなら仕方ない」という感じでした。
1年間のNSCを卒業してからも漫才をやりました。しかし相方と二人で足並みを揃えることの難しさを痛感。コンビを組んでは解散することを何度か繰り返し、その度に振り出しに戻る生活に精神的にも擦り切れました。
芸事を諦めようかと悩んでいた時、「1人でやるなら落語しかない」と思いました。大学時代の落研の記憶が蘇ってきたのです。それからはいろいろな落語会に足を運ぶようになりました。

後に師匠になる月亭遊方の高座を見て、舞台の上で縦横無尽にはっちゃける姿に「こんなに自由で爆笑させる落語があるのか!」と目から鱗が落ちました。お客さんを笑わせることを大切にするスタンスに惹かれました。
弟子入りを志願した当初は「急いでいるからまた今度」と断られましたが、その後何度かお会いして話を聴いてもらいました。「一遍様子を見るからついてみるか」と言っていただき、数ヶ月の見習い期間の後、2015年3月15日に正式に入門しました。
自分なりの居場所ができたという安堵感はありましたが、同時に今後のことを考えると身の引き締まる思いでした。
入門日は、桂米朝師匠がお亡くなりになった時期(※2015年3月19日没)と重なっていて、師匠から「お前でもおったら役に立つだろう」と言われ、本名のままお通夜とお葬式の手伝いに行きました。
後日、米團治師匠から「キミかいな!」と声をかけられました。葬儀の時に米朝一門全員で撮影した写真の中で、「一人だけ見たこともない知らん男が写ってる!誰やねん!」と一門の諸先輩方の間で騒ぎになっていたそうです。
入門後は、生野区の自宅から天王寺の師匠宅へ通いました。師匠の出番などに合わせて自宅までお迎えに上がり、現場へご一緒する日々でした。
はじめの頃は楽屋でも苦労しました。私は緊張する方で人の輪にすぐに溶け込めず、隅っこでブスッとした顔で黙っていると、師匠から「お前一人のせいで楽屋の空気が悪なるわ」と言われました。慣れてきて口数が増えると「何をべらべら喋っとんねん」と注意される。どっちにしても怒られました。
今となっては笑い話ですが、当時は「何が正解なんやろ」と悩みました。そうやって楽屋の空気や、師匠や先輩方の雰囲気を肌で学ぶことができました。
修業中は、師匠の前座として高座に上がる機会も多く、うちの師匠は、他の師匠から声がかかると、私が前座を務めることも快くOKしてくれました。本番でお客さんの前に立てるのは貴重な機会でした。
修業期間は2年半でした。同門の先輩や兄弟子は、2年で明ける人が多かったので、「いつになるんやろ」と焦る気持ちもありました。今思えば、師匠が「まだ一人で世間に出したらあかん」と判断して、じっくり育ててくれたのだと思います。
2年半が経った9月、「彦八まつり(上方落語協会のファン感謝イベント)」の撤収が終わった際、師匠から「もう年季明けや」と告げられました。弟子期間は、米朝師匠の葬儀の手伝いから始まり、彦八まつりの撤収で終わりました(笑)。ここからは独り立ちです。
年季が明けた後も、師匠方や先輩方に前座で使っていただき大変お世話になりました。入門から10年余りで、現在もまだまだ勉強しなければならないことがいっぱいです。
目の前の一つ一つの落語を演じることができる機会に感謝しながら真摯に取り組んでいきたいと考えています。(※取材時の6月下旬には、繁昌亭での「第12回上方落語若手噺家グランプリ」決勝大会(6/27)への出場も控えており、自身の力量を引き上げるために、こうした賞レースにも積極的にチャレンジしていきたいと語っていただきました)。
定席のこの喜楽館でも、繁昌亭でも、きちんと環境の整った演芸場で落語を聴いていただけるのは大変ありがたいことです。私は吉本興業所属ですので、NGK(なんばグランド花月)のような大舞台で演じることは夢でもあります。
一方で、ホテルの宴会場でも、飲み屋さんの机の上でも、道端でも。どんな場所でも、どんなお客さんに対しても笑いを取れる落語家になることを目指したい。
現在は、古典落語を中心にやっています。ゆくゆくは新作にも挑戦したいとは思っています。師匠は新作落語のスペシャリストでもあるので、その影響は当然受けています。ただ、「よほど面白くないと新作を世に出す意味がない」という気持ちもあって、本格的に取り組むのはもう少し先になりそうです。
いずれにしても、1席1席を大切にして、お客さんに面白い噺を届けていきたいと思っています。すべてはそこからだと思っています。
(2026年6月18日 神戸新開地・喜楽館にて)

この日の喜楽館昼席で、遊真さんは、古典落語「権助提灯」で、妾を持つ大店の主人(旦那)が、妻と妾からそれぞれ相手の家に行けと言われて困りきる様子をテンポよく演じて、客席を沸かしていました。
昼席と夜席の間の時間で、喜楽館の会議室でお話をうかがいました。一番印象的だったのは、私が質問する度に立ち止まって、丁寧に語ってくれる姿でした。とても真摯な姿勢が伝わってきました。
また、漫才でコンビを組んで舞台に立つことの大変さもあったようです。客席から見ていると、二人が登場して話し合う漫才は、初めからリアルな感じを受けます。でもそこまで到達するには、芸を演じる力と共に、相方との相性なども取り込んでいく難しさがあるのでしょう。
一方で、漫談などのピン芸の場合は、いきなり独りで舞台上の空気を作らなければなりません。落語は、先人の噺という財産もあるので、「瞬時に客席と呼吸を合わせることができるのかなぁ」と勝手に想像していました。
残念ながら今年の上方落語若手噺家グランプリでは、遊真さんの優勝はかないませんでしたが、引き続き精進して、どんな場所でも笑いの取れる落語家になってほしいと思いました。
「期待してまっせ―!」
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。


