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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第五十八回は桂 吉の丞さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!
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奇跡のチラシと二人の師匠
(桂 吉の丞インタビュー)
本名 飯村 隆祥
生年月日 1982年(昭和57)年7月31日
出身地 大阪府堺市
入門年月日 2002年(平成14年)8月13日 師匠「桂 吉朝」
公式X @kichinojo
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生まれは堺市で、子どもの頃は教室で「ちょけて」みんなを笑わせるのが好きな少年でした。小学2年から6年までは少年野球に打ち込み、中学では野球を辞めて友達と遊び呆ける日々。高校に進んだものの馴染めず、1年で中退しました。高卒の資格だけは取っておこうと通信制の高校に入学。17歳頃からは、鳶(とび)職やコーキング(防水シール打ち)、引っ越しのアルバイトなど、働いてはブラブラするような生活を続けていました。
転機が訪れたのは18歳の時です。明確にやりたいこともなく、「俺の人生、これからどうなるんやろ」と漠然とした不安を抱えていました。
そんなある日、家のテーブルの上に、たまたま1枚の落語会のチラシが置いてあったんです。入場料の安さにも惹かれて足を運んだのが、堺市内での「ジョイフル寄席」でした。そこで、のちの師匠となる桂吉朝の落語に出会いました。「1人で、舞台の上で何もかも表現できる。こんな凄い世界があったんや」と、一瞬でこの世界に入ろうと決めました。
とはいえ、当時の私は落語の知識がゼロ。母親に「落語家になる」と告げると、驚くべきことに母の仕事の取引先の人が、吉朝の幼馴染だったのです。例のチラシも、その方が母に手渡してくれたものでした。落語に興味のなかった母は、それをただテーブルにポンと置いていただけ。あのチラシが目に留まっていなければ、私は落語家になっていません。
その不思議なご縁のおかげで、大阪での独演会の楽屋口で、吉朝に初めてお会いすることができました。師匠は「後で電話してこい」と名刺をくれたのです。
後日、指定された阪急武庫之荘駅前で待ち合わせをしました。師匠から「落語好きなんか?」と聞かれ、「大好きです!」と答えました。
ところが、「『時うどん』は?」「???」、「『動物園』は?」「???」、「『寿限無』は?」「???」と、基本のネタを何も知らない。「お前、何しに来たんや……」と呆れ果てられましたが、見習いとして、かばん持ちからスタートさせてもらいました。

アルバイトには、地鎮祭の設営の仕事を選びました。吉日(大安)に1人でテントや幕を設営する仕事なので、時間が自由になるので見習いにも支障が出ない。しかも、車中では落語の稽古が存分にできる。あの日々は、今振り返っても最高の環境でした。
当時、大師匠である米朝の内弟子は、誰も車の運転ができませんでした。そこで、私が、米朝師匠の運転手を務めることになりました。せっかちな米朝師匠の「そこ右曲がれ、左曲がれ」という指示に、私の運転がガチッとはまり、見習いの「飯村」のまま、運転手になりました。母は「えっ、あんたが人間国宝の運転手!?」と驚いていました。
落語を何も知らない私を、吉朝はあえて見習い期間を長くして、色々な落語会へ連れて行ってくれました。そして「今の会で、誰がどういう噺をしたか言うてみ」と仕込んでくれたのです。母が心配して「落語を何も知らない子ですが、大丈夫でしょうか?」と尋ねた際、師匠は「(桂)ざこばさんや南光さんも何も知らんと来ました。そのほうが、かえって良うなったりします」と言ってくださったそうです。
2002年(平成14年)8月、ようやく吉朝から「弟子にする」と言われ、「吉の丞」という名前をいただきました。20歳の時です。当時の決まりとして、吉朝の弟子は米朝師匠の家で修行することになっていました。兄弟子の吉坊兄さんが卒業するのを待ち、2003年(平成15年)4月から、米朝師匠宅での3年間の住み込み修行が始まりました。
米朝師匠からは最初、「布団とお茶碗だけ持ってきなさい。あとは全部わしが面倒見る」と言っていただきました。住み込みの内弟子修行は、プライベートが一切ない世界です。兄弟子の佐ん吉兄さんと二人で住み込みました。息が抜けない毎日で、夜中に内線が鳴り、「酒持ってきてくれ」と呼び出されることもありました。
当時は、吉朝がどんどん忙しくなり、なかなか稽古をつけてもらえない期間が続いた時には、米朝師匠が「わしが見る」と稽古をつけてくれました。上方落語界の大御所二人から直接稽古をつけてもらうという、贅沢でありがたい経験をさせていただきました。
しかし修行中の2005年(平成17年)11月、師匠の吉朝が、50歳という若さで急逝しました。私の今後の身の振り方について、ざこば師匠が「俺が引き取る」と言ってくださるなど様々な議論が交わされる中、米朝師匠が「わしが面倒をみる」と、まさに鶴の一声。私は米朝師匠に預かられることになりました。
3年の年季が明けてからも、米朝師匠から「近くにいてくれ」と言われ、武庫之荘に留まりました。年季明け当初はまだ前座の仕事が少なかったのですが、2006年(平成18年)に開場した天満天神繁昌亭に楽屋番で入ることで、他の一門との交流が一気に増えました。
翌年には、NHK連続テレビ小説『ちりとてちん』の放送が始まり、徒然亭草原役を演じた吉弥兄さんが全国区の人気者になりました。当時、吉弥兄さんにはまだ弟子がいなかったため、私と佐ん吉兄さんが前座として全国ツアーに同行しました。さらに、小米朝改め五代目桂米團治襲名披露興行で全国77ヶ所を回る際にも、米朝師匠の付き人兼トップバッターとして高座に上がりました。大舞台で揉まれたことは、何物にも代えがたい財産です。
吉朝が亡くなった時、筆頭のあさ吉兄さんが35歳、吉弥兄さんが34歳、よね吉兄さんが33歳でした。一門の誰もがまだ一人前でなかったからこそ、「一致団結して頑張ろう」という強い絆が生まれました。今でも一門で集まると、「師匠やったら、これ何て言うてはるやろな」という話が自然と飛び出します。
今回のように、1週間喜楽館の主任(トリ)を任せていただけるのは、本当にありがたいことです。繁昌亭大賞輝き賞、第1回上方落語若手噺家グランプリ、文化庁芸術祭優秀賞など、なぜか周囲が私にチャンスをくださる。本当に人に恵まれた、めちゃめちゃええ世界に来られたなと実感しています。
吉朝が亡くなった50歳という年齢に、私も近づいてきました。米朝師匠もかつて「55歳までに全てを完結させる」と仰って、書き物も精力的にされていました。私自身も、これからは年齢を意識しながら落語に取り組む時期に入ってきたのかなと感じています。
若い頃は「売れたい」という気持ちもありましたが、今はそういう欲は小さくなりました。毎回の高座をしっかり勤め、目の前のお客さんに楽しんでもらう。その愚直な積み重ねだけだと思っています。これからも、まっすぐにお客さんへ落語を届けていきたいです。
(6月4日 神戸新開地・喜楽館にて)

6月1日(月)から7日(日)までの一週間は、~神戸新開地・喜楽館AWARD2025ファイナリスト_桂吉の丞主任興行~ということで、すべて吉の丞さんがトリをつとめて、登場するメンバーもご自身で決めるウィークでした。
この日の喜楽館昼席では、酒飲みの男が5升の酒を飲めるかどうかを賭けるという「試し酒」を演じた直後の吉の丞さんにお話しをうかがいました。
一番印象的だったのは、お母さんがたまたまテーブルに置いていた1枚のチラシが、吉の丞さんを落語の世界に導いたことです。しかも母親は興味がなく放置していたもので、ゴミ箱に捨てられたり、上に新聞が置かれていれば、落語家になっていなかったのでしょう。
また落語を全く知らなかった吉の丞さんを吉朝師匠がすぐに見習いにする。吉朝師匠が亡くなった後に、米朝師匠が自分の直接の弟子にされたことが、初めは少し不思議に思いました。しかしお話を聴いているうちに、お二人の師匠とも吉の丞さんが可愛くて仕方がなかったのだろうと勝手に想像しました。
吉朝師匠と初めて駅前で会った時のやり取りには思わず声を上げて笑ってしました。これからも目の前のお客さんを益々喜ばせてください。
「期待してまっせ―!」
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。


