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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第五十七回は桂 小鯛さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!
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99%の関西弁への執念
(桂 小鯛インタビュー)
本名 和田 康典
生年月日 1984年(昭和59)年6月23日
出身地 岡山県
入門年月日 2007年(平成19年)6月1日 師匠「桂 塩鯛」
公式X @kodai_katsura
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私は岡山県の倉敷市で、姉二人の末っ子として生まれました。幼稚園児の頃からテレビのバラエティ番組に夢中で、画面から溢れる熱量と面白さに圧倒されて、気がつけばテレビにかじりついていました。
学校では勉強もスポーツにも興味が持てず、中学時代は地味な卓球部、高校では完全に帰宅部で、バイトをして遊ぶお金を稼ぐ、どこにでもいる高校生でした。
ただ、頭の中はお笑いのことで一杯でした。パソコンでネットの大喜利投稿掲示板に夢中になっていました。見ず知らずの誰かから自分のボケに点数をつけられるのが何より嬉しかったのです。学校生活ではモテませんでしたが、たまに友人から「お前、おもろいな」と言われることが、心の拠り所であり、最高の褒め言葉でした。
高校卒業の間際、吉本興業が、NSC(吉本総合芸能学院)岡山校を開校し、1期生を募集するというニュースが飛び込んできました。「これは運命だ!」と興奮した私は、親には内緒で願書を出し、バイト代で貯めた入学金を支払って通い始めました。
ところが、現実は甘くありません。尖っていた私は友達もできず、焦る日々でした。しばらくして、相方を見つけて漫才コンビを組みました。他人とお笑いの好みや感覚を合わせ、時間を調整して何かを一緒に作り上げるというのは、想像以上に難しかったのです。ストレスが溜まり、「あぁ、自分は誰かと組むよりも、1人でやる方が合っているんだ」と、18歳にして痛感させられました。

1人で舞台に立ちたい。けれど、ピン芸人としてネタを書くノウハウはない。悩んでいる時に、ふと「そういえば、落語って1人でやるお笑いだよな」と思いついたのです。
そんな時に足を運んだのが、100円ショップのダイソーでした。当時、店頭には落語CDが100円で売られていました。最初に買った江戸落語の名人のCDはあまり馴染めませんでしたが、次に聴いた上方の音源が、ひっくり返るほど面白かった。音声だけで鮮やかに情景が浮かび、笑いが止まらなくなったのです。「落語って、こんなに面白いんや!」と、のめり込みました。
その後、本格的に落語会へ足を運ぶようになります。当時、後に師匠となる桂都丸(現・塩鯛)が、毎月のように岡山で落語会を開いていました。生で初めて見た師匠の高座はパワフルで圧倒されました。そこからの3年間は、コンビニのバイトを掛け持ちしながら、お金を貯めて落語を聴き漁る、落語漬けのフリーター生活を送りました。「この世界で生きていきたい」という覚悟が、徐々に固まっていった20代前半でした。
22歳になった時、私は弟子入りの決意を固めました。なぜ都丸師匠だったのか。最初は正直、「見た目が怖そうやな」とも思いました(笑)。しかし、師匠の落語が一番好きだったという事実に加え、師匠の落語は、現代のギャグを入れず古典落語を古風のまま演じるのに、なぜこんなに爆笑が起きるのか。その理由が分からず、「この人は普段どんな生活をして、どんなことを考えているんだろう」という純粋な興味も強かったのです。
東大阪市の落語会の楽屋口へ向かい、初めて師匠と対面して弟子入りを志願しました。当時、師匠が懸念されていたのは言葉(方言)の違いでした。それでもタイミングが良かったのか、短期間の見習いを経て、2007年 (平成19年)6月1日、正式に入門。「桂とま都」という名前をいただきました。根無し草の生活でしたので、やっと居場所ができた気持ちでした。親も安心したのではないかと思います。

師匠の家の近くにアパートを借りて、ほぼ休みなしの3年間の修行生活が始まりました。常に師匠や奥様の監視下にある生活ですから精神的には厳しかったのですが、先輩たちのおかげもあって無事修業を終えることができました。
修行で最も苦労したのは、やはり言葉でした。岡山のイントネーションは関西弁とは根本的に異なります。「雨」「傘」など、いちいち関西の調子に直さなければなりません。ある時、師匠から「俺な、お前の岡山弁についての気持ちは分かってあげられへん。だから、色んな人の落語を聴いて、自分なりに頑張っていくしかないんやろうな」。 この言葉は、今でも私の胸に深く突き刺さっています。
100%は無理でも、師匠の落語のイントネーションを徹底的にコピーして99%まで近づければよいと開き直りました。
今でも新しいネタを覚える時は、必ずノートに全てのセリフを書き起こして、言葉の横にオリジナルのアクセントの矢印を細かく書き込んでいます。ネイティブの関西人よりも、理論的には私の方が綺麗な落語の関西弁を喋れているかもしれない、それくらいの自負と執念を持って、今も地道な作業を繰り返しています。
平成22年(2010年)8月、修行を終えて「小鯛」に改名しました。師匠や先輩方のおかげで前座の仕事にも恵まれて、平成26年には第9回繁昌亭大賞の「輝き賞」をいただくことができました。しかし、これからは自分でお客さんを呼び、自分で職場を作っていかなければなりません。まさに今、私はその荒波の中にいます。
それでも私は、この落語家という商売が、世界で一番素敵な仕事だと思っています。生きていく中での失敗談や理不尽な出来事が、すべて高座の上で笑いに昇華できるからです。嫌なことがあればあるほど、「チャンス到来や!」と、むしろ嬉しくなるのです。
私は、最近になって、ようやく「今の俺の落語、結構いけてるんちゃうん?」と、少しずつ自分を認められるようになってきました。
私は古典落語も新作落語も両方演じますが、「この噺(はなし)は、やっぱり小鯛のやつが一番好きやな」と言ってもらえる演目を、生涯でいくつ作れるかの勝負だと思っています。
特に、お酒に関する落語は、これからも突き詰めていきたい。呑兵衛の気持ちが痛いほど分かる私だからこそ描ける、リアルで愛らしい人間の姿を客席にお届けしたい。
これからも、自分で自分を心の底から納得させられるようになるまで、一歩一歩、芸の道を進んでいくつもりです。
(5月21日 神戸新開地・喜楽館にて)

5月18日(月)から24日(日)までの一週間は、~神戸新開地・喜楽館AWARD2025ファイナリスト_桂小鯛主任興行~ということで、すべて小鯛さんがトリをつとめて、登場するメンバーもご自身で決めるウィークでした。この日は、昼席の高座で「代書」を終えた小鯛さんにお話を聞きました。
一番印象的だったのが、岡山出身の小鯛さんが直面した「関西弁の壁」であり、それを乗り越えた努力と執念でした。生まれも育ちも神戸の私は、言葉で悩むことは全くありませんでした。やはり小さい頃にインプットされたものは簡単には変えることができないのでしょう。
また「嫌なことがあればチャンス到来」と満面の笑みで語る小鯛さん。たしかに、良いことや嬉しいことがあれば単純に喜べばいい。また失敗や不合理なことに直面した時は、それを落語のネタに昇華する。こう考えれば、すべてを前向きなエネルギーに変えることができると思いました。
現代の組織の中で、理不尽に悩む多くのビジネスパーソンにとっても、一つのヒントになるのではないかと話を聞きながら感じていました。高座で描く小鯛さんのリアルな人間模様をこれからも楽しみにしています。
「期待してまっせ―!」
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。


