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トップページ > ニュース >  私が落語家になったワケ   >  第五十六回「18歳から住み込み修行」 <桂 九雀インタビュー>

2026/07/13

第五十六回「18歳から住み込み修行」 <桂 九雀インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第五十六回は桂 九雀さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!

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18歳から住み込み修行
(桂 九雀インタビュー)

 

芸名 ​桂 九雀(かつら くじゃく)
本名 室屋 聖
生年月日  1960年(昭和35)年12月2日
出身地 ​広島市
入門年月日 1979年(昭和54年)3月 師匠「桂 枝雀」
公式X @katsurakujaku

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就職先としての落語家

大阪へ越してきたのが中学1年生の時。当時はラジオやテレビのお笑い番組をよく視聴していました。ただ、最初から「落語一筋」というわけではなく、漫才も新喜劇も何でも見る。そんなごく普通の少年でした。

中学から将棋をはじめ、高校時代は将棋部でした。勉学と将棋。それが生活の中心で、月に一度、京橋のダイエーでやっていた「島之内寄席」に足を運ぶ程度で、落語研究会に所属していたわけでもありません。

きっかけは、大学へ行くのがどうしても嫌で、どこに就職するかを考えた時、ふと落語家さんたちの姿が浮かんだんです。みんな「ええ人そう」、あの仲間に入ったら楽しくやっていけるんじゃないか。

才能「6点」からのスタート

最初は一門の総帥である米朝師匠の家を訪ねました。米朝師匠はすでに内弟子が何人かいて、「うちは取られへんけど、枝雀のとこやったら紹介してやる」と言われました。私と師匠・枝雀とのご縁の始まりでした。

1978年の高3の夏休み、私は師匠の家で二週間の住み込みをすることになりました。弟子としてやっていけるか、馴染めるかを見極める期間だったのです。

二週間後に師匠から「10点満点で言うたら、君の才能は6点やな。できれば他の仕事に就いたほうがええと思うけど、どうする?」と言われました。

しかし、当時の私には他の仕事をする気はさらさらありませんでした。落語の難しさも分かっていなかったからこそ、迷わずにこの世界に飛び込むことができたのかもしれません。

二週間の住み込みを終え、高校を卒業するまでの間、週末ごとに師匠の家に通う『半内弟子』生活が始まりました。当時まだ小さかったお子さんのおむつを替え、身の回りの世話をする。まずは「落語家という生き方」を身体に染み込ませる日々。理不尽に怒られることは一度もありませんでした。師匠も、そして浪曲の内弟子経験者の奥様も、修行の本質を深く理解されていました。

師匠から授かった「理(ことわり)」

1979年3月1日。高校の卒業式の翌日に、私は正式に入門しました。18歳の時です。内弟子としての二年間、どっぷりと落語に浸かりました。師匠の生き方を24時間間近で見続ける。高座だけでなく、酔っ払った姿も、熱を出して寝込んでいる姿も、すべてが学びでした。「落語家という職業に就く」のではなく「落語家になる」という修行でした。

何よりも嬉しかったのが落語の稽古です。師匠は落語が大好きで、時間が許す限り稽古をつけてくれました。そこには、『枝雀理論』と呼べるような『理(ことわり)』がありました。

師匠の落語は、一見すると爆発的なオーバーアクションに見えますが、その実、驚くほど緻密でロジカルでした。例えば「ブレス(息継ぎ)」の重要性。どこで息を吸うかによって、言葉の重みも、客席に伝わる体感も劇的に変わります。

一つ一つに理論があるのです。感覚だけではなく、物理現象や化学のように落語を捉える。この師匠の教えがあるからこそ、私は弟子やアマチュアの方々にも「言葉」で落語を伝えることができています。

自分のスタイルを崩すな

内弟子を終えて独り立ちした後は、師匠・枝雀が全国で独演会を開いて、爆発的な人気を博していた時期です。私は前座としてそのツアーに同行させてもらい、1000人規模のホールで高座に上がる経験も積ませていただきました。しかも終演後、会場への移動の最中、師匠から直接受けるアドバイスは何物にも代えがたい経験でした。

お客さんよりも師匠のお眼鏡にかなうかどうかを気にしていました。お客さんにウケても師匠に怒られることもあれば、ウケなくてもOKがでることもある。お客さんは毎回違っても、自分の落語のスタイルを崩すべきではないというのが師匠の考えでした。

時代背景も追い風に

20代の頃には小劇場ブームの影響で、演劇の世界にも足を踏み入れました。最初は「役者が足りないから」と頼まれたちょい役でしたが、気づけばどっぷりはまりました。演劇を経験したことで、落語における人物描写の幅が広がり、高座を客観的に見る視点が養われたと思っています。

その後も比較的順調にお仕事もありました。当時は、今のようにピン芸人さんがいなかったので、テレビやラジオのレポーターやMCに漫才師や落語家が使われていたのです。私でも年季が明けてからレギュラー番組が一度も途切れたことはありませんでした。

また2006年に天満天神繁昌亭ができてからは、他の一門の落語家さんと一緒に舞台に上がる機会が増えたので、いろいろと刺激も受けました。

「九雀一門 泰然」への挑戦

この4月から「九雀一門 泰然」という会を繁昌亭で始めました。これは、師匠・枝雀が残した「枝雀落語大全」を、私と弟子たちで一から高座にかけていこうという試みです。

私の弟子たちは、生前の師匠・枝雀を知りません。彼らに師匠の音源を聴き直してもらって、その「理」に触れてもらう。そうすることで、師匠が目指した上方落語がいかに緻密に構成されているかを身体で感じてほしい。一巡するのに10年はかかる計画ですが、着実に進めていきたい。

弟子を育てる中で感じるのは、やはり努力の大切さです。才能が6点でも、その後の努力の方がはるかに大事だと思っているからです。どこで息を吸うか、視線の角度はどうあるべきか。それは科学ですから、やれば必ずできるようになる。その基礎の上に、自分たちの個性を乗せていけばいい。

現在、私は60代半ばを過ぎ、世間で言えば定年を迎える年齢になりました。しかし、落語家には定年はありません。むしろ、ここからが本当の勝負だと思っています。

ただ体力の維持も必要だと実感するようになりました。最近では、2日に1回程度、1時間の走り込みを欠かさないようにしています。私も高座で最高のパフォーマンスを維持するために、自分の身体も律していきたいと考えています。 
(5月7日 神戸新開地・喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

学生時代の友人と喜楽館に来た際、お見送り時に九雀さんと一緒に写真を撮ってもらったことがありました。その時に感じた柔らかい雰囲気に魅了され、今回は喜楽館の会議室でインタビューをお願いしました。

この日の昼席で九雀さんが披露されたのは「金明竹」。上方商人がまくし立てる長い早口の言づての場面では、その圧倒的なリズムと勢いに、客席から自然と拍手が起こりました。そのことを伝えると、九雀さんは、あの「ブレス(息継ぎ)」の重要性は枝雀師匠から理論として教わったものであることを丁寧に明かしてくれたのです。

九雀さんのお話の中で特に印象的だったのは、住み込み弟子時代のことです。24時間、間近で師匠を見続け、同じ空気を吸う。これは弟子を育てる側にとっても、育つ側にとっても、伝統を血肉化するための大切な仕組み(システム)なのだと痛感させられました。

以前拝読した『5人の落語家が語る ザ・前座修業』(NHK出版 生活人新書)でも、10代目柳家小三治師匠をはじめとする名人たちが前座時代を語っています。アプローチは違えど、彼らが一様に修行時代を肯定的に捉えていた理由が、九雀さんのお話を伺って腑に落ちました。

60代半ばを過ぎてなお、2日に1回の走り込みを欠かさず、エネルギーに満ちあふれている九雀さん。これからも高座で益々活躍されるとともに、枝雀師匠の教えを後輩にも伝えて、伝統芸能である落語をさらに広めていってほしいと思いました。
「期待してまっせ―!」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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