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トップページ > ニュース >  私が落語家になったワケ   >  第五十四回「自身に向き合い、進む」 <桂 雀太インタビュー>

2026/06/15

第五十四回「自身に向き合い、進む」 <桂 雀太インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第五十四回は桂 雀太さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!

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自身に向き合い、進む
(桂 雀太インタビュー)

 

芸名 桂 雀太(かつら じゃくた)
本名 岡田 健作
生年月日  1977年(昭和52)年2月26日
出身地 ​奈良県五條市
入門年月日 2002年(平成14年)5月 師匠「桂 雀三郎」
公式X @jakutta

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お笑いには遠かった

小学校の頃からダウンタウンさんが大好きで、テレビにかじりついて見ていました。でも、学校で中心になって笑いを取るタイプでは決してなかった。一人で、あるいは友達と一緒にその世界を楽しんでいるだけの、どこにでもいる普通の子でした。中学でも普通にテニス部でした。

高校は奈良県の智辯学園に進みました。野球部が有名な高校ですが、夕方5時半までびっしり授業があって、終わればそのまま帰るだけ。僕はクラブ活動にも参加せずに、したくもない受験勉強をこなす日々でした。

一番熱心なのはアルバイト

関西大学法学部も、「受かったから入学しただけ」で法律を勉強したいなんて微塵も思っていなかった。千里山のキャンパスに通い、下宿生活を楽しみながら、一番熱心だったのはアルバイトです。ホテルの配膳やレストランの仕事で、月に30万円くらい稼いでいました。帝国ホテルに行っては働き、受け取ったお金で遊ぶ毎日でした。

周囲は3回生後半から就職活動を始めますが、僕は一切しませんでした。就職氷河期の真っ只中でしたが、「どこかの組織に属して働く」というイメージが湧かなかった。「公務員試験を受ける」という体裁はとっていましたが、本気で勉強する気はありませんでした。

弟子入り志願を断られる

そんな生活の中で、手にしたのが中島らもさんの本でした。らもさんのエッセイには落語家とのエピソードがよく出ていました。それがどこか頭の片隅に残っていたんでしょうね。たまたま見かけたチラシに誘われて生の落語会に足を運びました。大学4回生の頃です。そこで出会ったのが、今の師匠、桂雀三郎でした。

初めて師匠の落語に触れた時、「これは面白い!」と直感的に思いました。落語会に連続して3回も通ううちに「自分はこれをやりたい」と心に決めていました。

ただ、すぐに入門できたわけではありません。大学を卒業して、師匠を訪ねて弟子入り志願に行きました。しかし「今は弟子を取ったばかりだから無理や」と断られました。真剣にお願いしましたが、振られたような気分でしたね。

落語家人生が動き出す

そこから2年間、僕は文字通り「何者でもない時間」を過ごすことになります。定職に就かず、短期のバイトや引っ越し、ホテルの宴会係などを転々としながらのフリーター生活。何か不安定な感じで、正直言って辛かった。

でも、他の師匠のところへ行こうとは一度も思いませんでした。2年が経った時、もう一度門を叩きました。当時の弟子が年季明けしたかもしれないと思ったからです。

「取るかどうかはわからへんけど、一つ噺を教えてあげよう」と、師匠は1ヶ月ほどかけて『子ほめ』の稽古をつけてくれました。その結果、「よし、取るわ」と言っていただけた。2002年5月、25歳。ようやく僕の落語家としての人生が動き出しました。

修行時代の充実

弟子修行は2年間。師匠の家の近所にアパートを借りて、毎日通いました。落語だけでなく、着物の畳み方、太鼓の叩き方、……覚えることは山ほどありました。でも苦労だと思ったことは一度もありません。

師匠も当時は比較的時間が空いていて、よく稽古をつけてくれました。理不尽に怒られることもなく、純粋に芸を吸収できる環境。とても充実した日々でした。

弟子の期間はバイトもせずに落語に打ち込むことができました。年季が明けた後も前座の仕事もいただいて、一人でなんとか生活できました。また落語家としてやっていける自信もつきはじめました。

双極性障害(躁うつ病)

しかし、落語家として歩み始めた僕の裏側で、ある「波」がうごめき始めていました。

実は、僕には二十代前半の頃から「双極性障害(躁うつ病)」の傾向がありました。躁状態になると、もう万能感に支配されるんです。覚醒剤を打ったこともないのに「打ったらこんな感じなんやろうな」と思うくらい、目がギンギンになって、3日も4日も全く寝ずにアイデアが溢れてくる。

「広辞苑くらいの厚さの小説が書ける!」と本気で思って、ひたすら文章を書き殴ったり、誰彼構わず喋り倒したりしていました。でも、その半年後には決まって「うつ」がやってくる。体が動かなくなり、暗闇の底に沈み込む。

落語家になってからも、この波に何度も襲われました。これまでに5回ほど活動を休止しています。最長で1年休んだこともありました。

「気づき」の中に生きる

僕は長年、この波と闘ってきました。最近ようやく、自分なりのコントロール法が見えてきました。薬に加えて、「瞑想」あるいは「気づき」の実践です。

瞑想といっても、ただ座禅を組むだけではありません。日常のすべての動作を意識的に行うことです。お茶を飲むとき、「今、コップを握った」「口に運んだ」「飲み込んだ」と心の中で実況中継するように意識する。

人間は大人になればなるほど、ほとんどの行動を無意識で行います。ところが、無意識だからこそ、ネガティブな思考が入り込む隙を与えてしまう。「あ、今ネガティブな考えが出たな」。そう気づくだけで、少し距離を取ることができるんです。瞑想の一つの側面です。

結局、「もっと自分は評価されたい」といった執着に振り回されていたのかもしれません。これからは、もう少し肩の力を抜いて、より穏やかに落語に向き合っていきたいですね。
(4月23日 神戸新開地・喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

喜楽館の昼席の後でお話をうかがいました。この半月近く、雀太さんの喜楽館での出番が多く、学生当時の友人と一緒の機会や、インタビューの前後に4回ほど高座を楽しみました。マクラから「代書」などの噺まで、毎回笑いが途切れない。迫力のある語りで客席を沸かしていました。

雀太さんは、2016年の「NHK新人落語大賞」をはじめ、「2017年 咲くやこの花賞」、「2019年 上方落語若手噺家グランプリ 優勝」、「2020年 文化庁芸術祭 新人賞」など、各賞を軒並み受賞されて、「2023年 第1回神戸新開地・喜楽館AWARD初代王者」にもなりました。

一方で、話にもあったように何度か双極性障害で仕事をお休みされる期間もありました。喜楽館AWARDの初代王者になった後が、一番大変だったと語っていました。

私は40代後半に、「うつ状態」という診断書がでて、会社を長期に休職した経験があります。しかし自身の症状を語る雀太さんの言葉の背景にある大変さは簡単には理解できないと感じました。

雀太さんは、ネットラジオや講演会などを通じて、自身の病状や対処法についても発信しています。同様な症状で苦しんでいる方々の気づきや助けにもなるのではないかと思いました。

インタビューの中で、雀太さんは、自身の「死生観」についても、古典落語「粗忽長屋(そこつながや)」を例に語ってくれました。これらの自身を深める考え方が、落語にも反映されているのでしょう。
体調には十二分に留意されて、引き続き面白い落語を聴かせてください。
「期待してまっせー!」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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