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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第五十五回は笑福亭 喬介さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!
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もう一人の師匠
(笑福亭 喬介インタビュー)
本名 川﨑 直介
生年月日 1981年(昭和56)年7月22日
出身地 大阪府堺市
入門年月日 2005年(平成17年)6月1日 師匠「七代目 笑福亭 松喬」
公式X @rakugokyousuke
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小さい頃は、日が暮れるまで外を走り回っている子どもでした。テレビよりも外遊びが大好きで、友達と秘密基地を作ったり、サッカーや野球に明け暮れたりしていました。
私の最初の「将来の夢」は、登山家でした。小学校の時に、先生が授業の合間に植村直己さんの本を読んでくれました。その冒険譚にすっかり魅了されて、「僕は将来、山に登る人間になるんだ」と決意しました。
中学校に入ると、迷わず野外活動部に入部。単に山道を歩くような部活ではなく、先生がかなり本格的な人で、六甲山などでロッククライミングをやるんです。先生が先に崖を登って杭を打ち、ロープを垂らして、僕らがその切り立った崖を必死に登る。勉強は二の次で、とにかく崖を登ることばかり考えていました。
大阪の男子校、上宮太子高校に進みました。先生は非常に厳しくて、何かあればすぐに激しく怒られる環境でした。正直、学校の先生という存在が大嫌いでした。
そんな調子ですから、成績は低迷。大学受験を控えた三者面談で、担任から「お前の偏差値で行ける大学はない。専門学校で手に職をつけて就職しろ」と決めつけられました。その瞬間に、「なんであんたに俺の人生を決められなあかんねん!」と、親もいる前で反抗してしまいました。
しかし、冷静になれば勉強してこなかった自分が悪い。親に頭を下げて一年間塾に通い、近畿大学文芸学部に合格しました。特定の狭い世界に閉じ込められるのが嫌だったので、多種多様な人がいるのではないかと総合大学を選びました。
入学して校内を歩いていると、たまたま「落語講談研究会(落研)」の新入生歓迎寄席のチラシを渡されました。それまで落語には全く縁がありませんでした。「ちょっと覗いてみるか」という軽い気持ちで会場に入りました。そこで高座に上がった、トップバッターの新2回生の先輩が衝撃的に面白かった。小柄な真っ黄色の着物を着たパーマをあてた男前の先輩が演じる『二人癖(ににんぐせ)』を聴いて、笑いが止まりませんでした。「落語って、こんなに面白いんや」と、一瞬で入部を決めました。彼がいなければ落研には入っていません。
3回生になる頃には、部室にあった枝雀寄席のビデオを観てその圧倒的な芸を前に「プロってすごいな」と改めて感動しました。
就職活動も一応しましたが、組織の中で働く自分を想像することができませんでした。「1回きりの人生、好きな道で失敗するなら納得がいくだろう」と考えました。

そして落語家になろうと思った決定打は、1年上のあの「真っ黄色の先輩」が、卒業後にプロの講談師(旭堂南青、現・旭堂南龍)になったことでした。「え、あんな身近な人がプロになれるんなら俺もやれるかもしれない」という、根拠のない自信が湧いてきました。
在学中にいろいろな落語会に足を運びました。その時に、後に師匠になる笑福亭三喬(当時・現七代目笑福亭松喬)の高座を聴きました。それまで見てきたどの落語家よりも「自然体」で、飾らないおじさんがそのまま喋っているような空気感がありました。「この人だ」と直感したのです。
大学卒業後まもなくして、出待ちをして弟子入り志願しました。師匠は「後で連絡するから」と連絡先を受け取ってくださり、後日じっくりとお話を伺った末、2005年6月22歳で入門が叶いました。
修業時代は、西宮にアパートを借りて、毎日師匠の家に通いました。掃除、犬の散歩、鳴り物の稽古、落語の稽古……。優しそうだと思っていた師匠は、芸事に関しては非常に厳しかった。毎日怒られてばかりで、「明日の朝に天変地異が起きて、師匠の家に行かなくて済まないかな」と毎晩願っていました(笑)。今、思えば自分が不器用だったと思います。
生活費を稼ぐために、午前中は梅田の「551の蓬莱」でアルバイトをしていました。ここは戦場のような忙しさでしたが、私はそこで重宝されました。蒸し上がった豚まんを箱に詰め、餃子を焼き、シュウマイを詰め……。その手際良いスピードは、店が入っていた沿線の係長から「時給を上げてやる」と言われるほどでした。
2006年に天満天神繁昌亭が開場し、上方落語界に追い風が吹きました。年季が明けてからは、仕事が途切れることはなく、3年ほどは休日もほとんどありませんでした。多くの高座に上がらせてもらい、いくつかの賞もいただきました。
芸歴20年を超え、私も弟子(笑福亭喬明)を取る立場になりました。女性の弟子ですが、私は師匠から教わったことをそのまま伝えるようにしています。厳しく接するのは、彼女が将来弟子を取った時に、伝統の「芯」を教えられるようにするためです。レベルを下げることはできません。また弟子を取って初めて師匠の気持ちがわかることや、私自身が教えられることもあります。
これからの抱負を言えば、ただ闇雲にネタを増やすのではなく、一つひとつの落語を大切に磨いていきたい。落語は「何をやるか」ではなく「誰がやるか」ではないでしょうか?
お客さんは、ネタそのものではなく、噺家の「個性」や「楽しさ」にお金を払ってくださると思っています。
私の理想は、やはり師匠のような「自然体」で高座にあがることです。ガチガチに「芸」を演じるのではなく、舞台に上がった瞬間に、そこにいるだけでお客さんがホッとするような、それでいて自分の色が滲み出るような落語。そんな境地を目指して、これからも高座に上がり続けたいと思います。
(4月30日 神戸新開地・喜楽館にて)

この日の喜楽館昼席では、喬介さんはトリの前に「ぜんざい公社」を披露して、客席を沸かしてくれました。客席に呼びかける場面もあって自分なりの楽しさを伝えようとされているように思えました。
一番印象的だったのは、1年上の先輩(後の旭堂南龍)の存在です。彼がいなければ、喬介さんが落研に入ることも、プロの道へ背中を押されることもなかったでしょう。
落語家の師匠は、もちろん七代目笑福亭松喬師匠ですが、喬介さんが「落語家になる」という扉を開けた際の師匠は、この先輩だったのだと感じます。
私がこれまでのキャリアの取材で見てきた中でも、人が新しい世界へ飛び込むとき、そこには「師匠(先達)」がよく現れます。それは有名な先生やその分野の専門家とは限りません。未来の自分の姿や可能性をさりげなく示してくれる、そんな人が身近にいるだけで、人は一歩を踏み出しやすくなるのです。そういう意味では、世の中は、実は「師匠」で溢れているのかもしれません。
また喬介さんが比較的若くして弟子を持ったのも偶然なのかどうかも気になりました。
自然体で、かつ喬介さんらしさが溢れる落語を、これからも楽しみにしています。
「期待してまっせー!
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。


