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トップページ > ニュース >  私が落語家になったワケ   >  第五十三回「人間味あふれる落語家に」 <桂 小文三インタビュー>

2026/06/01

第五十三回「人間味あふれる落語家に」 <桂 小文三インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第五十三回は桂 小文三さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!

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人間味あふれる落語家に
(桂 小文三インタビュー)

 

芸名 桂 小文三(かつら こぶんざ)
本名 水谷 太地
生年月日  1991年(平成3年)11月18日
出身地 ​東大阪市
入門年月日 2018年(平成30年)4月1日 師匠「桂 文三」
公式X @kobunza33

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「喋れるって、こんなに楽しいんや!」

僕は、生まれつき舌の裏の筋が短くて、小さい頃は言葉をうまく発することができませんでした。友達に馬鹿にされることもあって、幼い自分に強烈なコンプレックスがありました。

小学校に上がる直前に、両親が「手術をしよう」と決断してくれました。舌の筋を少し切るだけの手術でしたが、今までつっかえていた言葉が、スッと外に出るようになりました。「喋れるって、こんなに楽しいんや!」。内気だった性格はガラリと変わり、活発な子どもになりました。

小学生から野球に打ち込む

小学校1年生からソフトボールを始め、高学年からは地元東大阪のボーイズリーグに入りました。プロを目指す選手もいる強豪チームで揉まれました。中学も野球を続けて、進学先に選んだのは大阪市立桜宮高校でした。公立校ですが体育科があって、私立の強豪校と並んで野球に力を入れていました。元阪神タイガース監督の矢野燿大氏も先輩です。

当時の野球部の部員は1学年で50人以上、全体で140人を超える大所帯。練習も厳しいものでした。2年生までは、レギュラーは遠い存在でした。

最終学年になって、レギュラーに定着して、秋の県大会はベスト4、春の大会では準優勝しました。しかし僕は大事な時期に肘を痛めてしまい、最後の夏の大会はスタンドからチームメイトを応援することになりました。

「このまま会社員になっていいのか」

高校を卒業して京都外国語大学に進みました。肘の怪我も、受験休みの間に少し回復して硬式野球部に入りました。大野雄大さん(現・中日)とも対戦しましたが、あまりのレベルの差に「野球で飯を食うのは無理だ」と早々に悟りました。

大学時代は、半年間あまりオーストラリアやフィジーへの留学も経験し、英語力も向上しました。就職部の方からも「英語が得意だし、体育会の野球部なので就活は困らない」と言われていました。私も商社か、貿易会社で働きたいと考えた時期もありました。ところが、4回生で野球部を引退しても就職活動をしなかった。決められたレールの上を歩くのが怖かったのかもしれません。好きなことを見つけたいという気持ちもありました。

卒業後の2年間は、バイトでお金を貯めては国内外へ旅に出る生活を続けました。友達と朝まで飲んで、不摂生な毎日を送っていました。けれど、「俺、このままでええんかな」「何か一生をかけられるものを見つけなあかん」と心の中では焦っていました。

テレビ画面の師匠の高座に釘付け

そんなある日の朝5時でした。前日に泥酔状態で帰宅した僕は、何気なくテレビをつけると、NHKの落語番組が流れていました。そこに映っていたのが、後の師匠、桂文三だったのです。「崇徳院」というネタでした。

陽気な高座を見ているうちに、画面の中の師匠に釘付けになりました。落語を聴いたことがなかったのに「僕がやりたかったのは、これかもしれへん」という直感がありました。

それから僕は師匠の追っかけを始めました。和歌山県の那智勝浦の落語会にも行きました。また他の落語会にも足を運びました。両親を居酒屋に誘って「落語家になりたい」と切り出しました。母親は泣きながら大反対。父親は、「そんなに言うなら半年間だけ様子を見てやる」と話していました。

偶然が手繰り寄せた入門

師匠への入門も一筋縄ではいきません。一度、出待ちをして「弟子にしてください!」とお願いしましたが、「今は弟子を取る気はない」と断られました。その時に履歴書を渡しましたが音沙汰がありませんでした。

諦めきれずにいた時、師匠が出演する落語番組の公開収録にファンであることを強調したハガキを書いて応募しました。会場でたまたま僕の隣に座っていた女性が、なんと師匠の奥様だったのです。私の顔を覚えてくれていて、楽屋の師匠に電話してくださった。

後日、繁昌亭近くの焼肉屋に連れて行ってもらいました。師匠は僕に肉を焼いて話を聞いてくれました。「ネタを一つ覚えてこい」と言われ、「十徳」を必死におさらいをして師匠の前で披露しました。うまく喋れなかったことは自分でもよくわかっていました。師匠は後になって、「あの時、お前の声が小さかったら即座にクビにするつもりやった」と笑っていました。こうして僕は、2018年4月1日、26歳で入門しました。

修行期間は4年に延びる

師匠の自宅近くにアパートを借りて通いながら、仕事場にも同行。落語については、ほとんど何も知らないで入門したので覚えなければならないことが満載でした。

師匠は厳しかったですが、それは理不尽な怒りではなく、僕の「気づきのなさ」に対する教育でした。落語はもちろんですが、何よりも「人としてどうあるべきか」という部分に集約されていました。今となっては大変ありがたかったと感じています。

修行期間は当初3年の予定でしたが、結局4年に延びました。最後の1年は「まだ年季が開けないのか」と腐りかけたことも正直ありました。

「今、年季明けしてもコロナ禍で仕事がない。もう1年修行させて、社会が動き出すタイミングで出してやろう」。そんな師匠の愛情を知ったのは、独り立ちしてからのことでした。

海外での落語の披露と社会人野球

師匠や先輩方に前座で呼ばれることも多かったので、バイトもせずに落語だけで過ごすことができました。みなさんに感謝しかありません。最近ではご縁の輪が広がり小文三個人に声をかけてもらう機会も少しずつ増えてきました。

もちろん落語の研鑽がまずは一番ですが、人より少しだけできる英語と、打ち込んだ野球の経験が私の特長だと思っています。

現在も、年に1、2回は海外に行き、現地の日本人学校などで落語をしています。ベトナム、カンボジア、マレーシア……。海外で暮らす子どもたちは、帰国後に文化ギャップで悩む子も多いと聞きました。僕の落語が、ささやかでも彼らと日本を繋ぐ架け橋になれば、これほど嬉しいことはありません。また将来は落語を英語で喋って世界中の人を笑わせたい。僕の大きな目標です。

また、高校野球やプロ野球に比べて、光の当たりにくい社会人野球ですが、昼間は仕事をして、それから必死に練習する選手には魅力的なドラマがあります。その熱量を、落語を通じて伝えていくことも今後考えていきたい。

人間味あふれる落語家になるため、一歩ずつ、泥臭く精進していく覚悟です。
(4月9日 神戸新開地・喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

この日の昼席では、「阿弥陀池」を披露した後に会議室でお話をうかがいました。終始はきはきと質問に応えてくれました。

小文三さんは、「僕はお笑いとは一番遠い人間だったかもしれません」と話していました。
印象的だったのは、落語家になるのに二つの偶然が重なっていることでした。

ひとつは、それまで落語を聴いたこともなかったのに、たまたま朝5時の師匠の登場するテレビ番組を観たこと。二つ目は、文三師匠に弟子入りを断られていた期間に、応募して参加した落語会の客席がたまたま師匠の奥様の隣だったことです。

いずれも意図せざるものなのですが、そこには単なる偶然とかたづけられないものがあると感じました。前者は、小文三さんが「何か一生をかけられるものを見つけなあかん」と何かを求めていたこと、後者は、師匠に断られても諦めきれずに書いたハガキが、奥様と出会うチャンスを呼び込んでいます。小文三さんの渇望感や求める気持ちが偶然を生んでいるように私には思えたのです。

また、落語と遠かった分、その間に打ち込んだ野球や海外の経験で磨いた英語もあります。
それらも活かして、お客さんに愛される落語家になってほしい。「期待してまっせ―!」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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