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2026/05/18

第五十二回「四十を過ぎての再出発」 <笑福亭 円笑インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第五十二回は笑福亭 円笑さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!

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四十を過ぎての再出発
(笑福亭 円笑インタビュー)

 

芸名 四代目 笑福亭 円笑(しょうふくてい えんしょう)
本名 鈴木 義男
生年月日  1940年(昭和15)年3月26日
出身地 ​東京都品川区
入門年月日 1981年(昭和56年)10月 師匠「六代目 笑福亭 松鶴」

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雷に打たれたような衝撃

私は今、86歳。この歳で高座に上がり続けているのは、東西を見渡しても私と福団治兄さんくらいでしょうな。私のルーツは東京です。芝で生まれて神田で育つ、いわゆる「ちゃきちゃき」の江戸っ子です。そんな私がなぜ落語の世界に魅了されたのか。きっかけは昭和28年、13歳の中学生でした。

三代目三遊亭金馬は釣りの帰りに鉄橋を歩いていて事故に遭って足を失いました。その金馬師匠を慰める会が神田の「立花」という寄席でありましてね。文楽、志ん生、円生、正蔵、小さん……今思えば、信じられない名人たちが若手や中堅として出演していた。

それを観た時に私は雷に打たれたような衝撃を受けたんです。「世の中に、こんなに面白いものがあるのか!」。学校でも国語の朗読や社会科の発表だけは図抜けて成績が良かった。算数や理科はからっきしダメでしたがね(笑)。あの日を境に、私の心は「喋る商売」に完全に持っていかれました。

親の反対で夢を断念

最初はアナウンサーにも憧れました。当時は高卒でもNHKのアナウンサーになれました。ところが、私が卒業する前年に「大卒限定」に規定が変更になって弾かれてしまった。

次に考えたのは落語家への入門。六代目三遊亭円生師匠に憧れ、私は一度門を叩きました。当時の落語界は、親を連れて行かないと入門させてもらえなかった。ところが親父は江戸っ子の桶職人ですから、「てめえ、そんなヤクザな商売するなら出て行け!」と、こっぴどく殴られて、結局涙を飲んで諦めました。

その頃、民間放送で素人の即席演芸会という番組があって、私はそこに応募して「チャンピオン」になっていました。各地の寄席に通っていたので落語も自然と頭に入っていたのです。後に人間国宝になる郡山剛蔵くん(後の柳家小三治)ともそこで競い合った仲です。彼は凄かった、15週連続チャンピオンでした。私は彼に敗れましたが、1回のチャンピオンになると、賞品のほかに2000円もらえた。高卒の初任給が8500円の時代ですよ。新宿の末広亭あたりを闊歩して遊んでいました。

係長から、包丁一本の料理人へ

結局、親の反対を押し切れず、堅気の道を進みました。商業高校を卒業して、私は通信機器会社に入社しました。

そこで10数年、サラリーマンとして働きました。係長まで昇進しましたよ。当時は家電ブームで、本社から販売会社へ出向して、形の上では「常務取締役」になったこともあります。でも、中身は、「宴会係長」です。接待の席で「うちの係長は落語をやりますよ」なんて言われて一席披露する。商売の腕より、そっちで重宝されていました。

ただ、「自分はこのままでいいのか」と考えて会社を辞めました。
親も亡くなり、寄席にはずっと通い続けていました。しかし今さら東京の師匠たちの門を叩くのも、変なプライドが邪魔をしてできなかった。私は一念発起して料理学校に通い、免許を取って東京で自分の店を開きました。商売は軌道に乗って一度は落ち着きました。

松鶴師匠との出会い

ある日、旅行で大阪を訪れた時に、たまたま毎日ホールで六代目笑福亭松鶴師匠の独演会を三日間連続で観た。「……このおっさん、おもろいな!」と直感しました。江戸落語にはない、上方の泥臭くも温かい生命力に惹かれたんです。

二度目に自宅を訪ねた時、ようやく師匠に会ってもらえました。私は今までのことをすべて正直に話しました。すると師匠は「お前、嫁はんは?」と聞きました。離婚したと伝えると、「別れた嫁はんを連れてこい」と言うんです。

驚きましたが、なんとか来てもらいました。師匠は、私を廊下に正座させ、元妻を座布団に座らせてお客様として扱う。「おい、気の利かんガキ、お茶持ってこい」と私をこき使うんです。元妻が「男運がないと思って諦めました」と言ったら、師匠は「正解!」なんて笑ってね。松鶴師匠はすべてを分かった上で、私を迎え入れてくれました。1981年(昭和56年)10月に入門を許されました。私が41歳のことです。

江戸弁が武器に

弟子入りして4年6ヶ月、私は料理ができたもんですから、師匠や女将さんには重宝されましたよ。多くの弟子が師匠と一緒に食事をとることも日常でしたから。一度、小さな鍋で天ぷらを揚げろと言われて「こんな道具じゃ大勢の美味いもんは作れません」と初めて口答えしたら、一ヶ月後に20万円もする料理セットを買い与えてくれました。厳しいけれど、温かいのが松鶴という師匠でした。

私の名「円笑」は、かつて京都を中心に一世を風靡した名跡です。六代目円生師匠が生きておられるうちは同じ文字では失礼だと、最初は「猿笑(えんしょう)」と名乗りましたが、師匠は最初から私にこの名を持たせる含みを持っていてくれたようです。

大阪に来て苦労したのは言葉です。私は江戸弁が染み付いていますから、上方のネタはやりません。お客さんは関西弁を期待しているので、最初は戸惑われました。でも、15年、20年と経つうちに、それが私の武器になった。上方落語の合間に、江戸の短気な職人言葉が混ざると、かえって新鮮に響くようです。

目標は100歳まで現役で高座に上がること

近年は、松本清張作品の落語化に力を入れています。『女義太夫』などの短編を人情話に仕立て直しました。米朝師匠に相談した時、「一つだけやなく、シリーズにせなあかんよ。ただし、マクラでしっかり笑わして、本題では小説の世界を見せなさい」とアドバイスいただきました。まるで大学教授と対話しているようでした。2026年も清張シリーズを東西の寄席や落語会で披露しています。

芸というのは、50歳やそこらで完成するもんじゃありません。清張シリーズも自分のものにするのに15年かかりました。若い時に人情話をしても、人生の機微が分かっていないから薄っぺらくなる。高齢になった今だからこそ、自然と語れる人情があるんです。 

高座で「私は今、86です」と言えば、会場から拍手が起こる。背筋を伸ばし、大きな声で喋る。膝を折ってスムーズに座る。それだけで、お客さんに元気を分け与えられるのではないでしょうか。

目標は100歳まで現役で高座に上がることです。これまで100歳で現役を貫いた噺家はいません。たとえ高座で居眠りをしても、「寝かしておいてやりなよ」とお客さんに言われる、そんな愛される存在でありたいですね。
(4月7日 神戸新開地・喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

この日の喜楽館昼席では、円笑さんは中入り前に登場された。「100歳になったら喜楽館で記念落語会を催したい」とのマクラに会場はうなずきながら拍手。「ただ、それまでにお客様とこの喜楽館が存命であるかどうかがわからない」というオチで笑いを取っていました。演じた『お血脈』(おけちみゃく)の口調も江戸弁で、舞台の雰囲気が東京になったのかと思うような切り替わりの妙を感じました。同時にこういう80代になりたいと感じました。

昼席後の会議室でも、とても80代後半の人の話とは思えないほどお元気に語っていただきました。一番印象的だったのが、一旦親の反対で落語家の道を諦めて、サラリーマンや料理人を経験した後に、40歳を越えて松鶴師匠に弟子入りしたことでした。

その円笑さんのフットワークの軽さに驚くとともに、松鶴師匠が元妻と一緒に挨拶に来させたのも何か可笑しい。松鶴師匠の声色もマネながらのお話を楽しく伺いました。

円笑さんが100歳で高座に上がるのを見届けたい。そのためには、私は今の円笑さんの年齢まで元気で過ごさなければなりません。100歳記念落語会を「期待してまっせ―!」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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