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2026/05/04

第五十一回「お客さんに笑ってもらうために」 <林家 染八インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第五十一回は林家 染八さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!

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お客さんに笑ってもらうために
(林家 染八インタビュー)

 

芸名 林家 染八(はやしや そめはち)
本名 上村 勘太朗
生年月日  1992年(平成4)年10月14日
出身地 ​大阪市
入門年月日 2011年(平成23年)6月1日 師匠「五代目 林家 小染」
公式X @kk1014

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小学校4年生から「受付係」

父親が落語家の五代目林家小染(1963〜2024)、母親が三味線奏者という家庭に生まれた私にとって、落語や芸事は幼い頃から自然と生活の一部でした。

幼稚園や小学校低学年の頃、父親が寝る前に絵本代わりのように噺をしてくれました。ストーリーよりも、『三十石』の「お下りさんやおへんかいな」といったくだりが好きで、何度も「やってやって」とせがんでいました。また母親が自宅で三味線を生徒さんに教えていた時には、自然とその音を聴いて育ちました。

落語の世界に関わり始めたのは、小学校4年生の時です。大阪の茶臼山にあった桂あやめ師匠の会で、受付の手伝いを頼まれたことがきっかけでした。最初はお小遣い目当てでしたが、父親・林家小染の会にも呼ばれるようになり、月に何度か高座の空気を間近で感じる日々が続きました。

落語家になりたいと感じた瞬間

落語に対する意識が変わったきっかけは、中学3年生の頃、繁昌亭の受付の手伝いをしていた時のことです。ある落語家さんの初舞台に立ち会いました。

周囲の噺家さんたちが「頑張りや」と送り出し、客席も応援する雰囲気で受けとめているのを見た時に、「落語の世界っていいな」と感じました。舞台に立つ人間が先輩や客席に応援される。その空気感を目の当たりにした瞬間に、漠然とではありますが「この世界に入りたい」という気持ちが芽生えたのです。ただ当時は誰かに打ち明けるわけでもなく、「頭の片隅にあるだけ」でした。

大阪の興國高校に進んでも落語家への興味は続いていましたが、帰宅部で家に帰ると毎日テレビを見て過ごしていました。プロ野球もこの頃からサンテレビで阪神タイガースの試合を父親と一緒によく観ていました。

三者面談での涙

高校3年生の三者面談。担任の先生に事前に「落語家になりたい」と打ち明けたところ、「味方する」と言ってもらっていました。ところが母親が反対する中、先生は「大学に行ってからでも遅くないと思います」と言葉を翻しました。裏切られたという気持ちになり、その場で泣き出してしまいました。

次回の三者面談は父親が代わりに出席することになりました。学校の廊下で「そんな楽な世界ちゃうねんで。わかってるな」と念を押されました。

そして三者面談の席で、先生が再び「大学に行ってから別の道を見つけることもある」と話した時、師匠は静かに、しかしはっきりとこう言いました。

「我々夫婦は好きなことをやっています。社会に何の役にも立たない仕事を自分のやりたいようにやっている。それなのに自分の子どもに『あれあかん、これあかん』という権利はありません。こいつがやりたいと言うならやらせようと思います」
先生も納得し、落語家への道が正式に認められた瞬間でした。

実家での内弟子

高校卒業後、特別な入門の儀式があったわけではありません。家族全員で食事をした機会に、師匠から「こいつを弟子にしようと思う」と告げられて弟子入りの形が整いました。2011年6月1日、私が18歳の時のことです。

実家で住み込みという内弟子生活が始まりました。父親と師匠という二重の関係の中での修行は、最初はぎこちない距離感がありました。師匠は「徐々に慣れていったらええな」と言い、私は家の掃除を担いながら、着物の畳み方や靴の並べ方を一つひとつ教わりました。

稽古は2〜3日に1回のペースで、口移しで進められました。修行中の3年間で12〜13本のネタを叩き込まれ、「1日3本、どのネタでもいいから稽古しなさい」と言われました。毎日繰り返すその積み重ねが、後の土台になったと思っています。

師匠からもっともよく言われたのは、「とにかくお客さんに笑ってもらうことを1番に考えなさい」という言葉でした。楽屋での段取りも先輩への気遣いも、すべての根っこはお客さんのためにある。怒られた記憶のほとんどは、舞台で滑った時のことでした。

3年の修行を終えた時、師匠から「家探しも大変やろうからしばらくいてええで」と言われましたが、けじめをつけたいと考えて自分で部屋を探し、1人暮らしを始めました。前座として先輩方から仕事に呼んでもらう機会が増え、月に20本以上こなす時期もあり、アルバイトをすることなく過ごすことができました。

コロナ禍が変えた落語への向き合い方

入門から約10年が経った2020年、コロナ禍で仕事が一斉になくなりました。外出もできず仕事もない毎日の中で、自宅からYouTubeの生配信を始めました。落語だけでなく、晩ご飯を食べるだけの配信や小噺の数珠つなぎ動画など、思いついたことをどんどん形にしていきました。繁昌亭のYouTube更新も担当するようになりました。

「自分のやりたいことをどんどんやっていいんだ」。それまでは1歩引いてしまうところがありましたが、今までの積み重ねが実ったのか、コロナ禍で一度頭を整理できたからなのか、落語がめちゃくちゃ楽しくなってきました。この頃から繁昌亭の若手噺家グランプリの決勝にも残るようになり、「こうやったら笑ってもらえる」という感覚が徐々に身体に馴染んできたような気がします。

高座に上がる喜び、お客さんとの空気感

師匠からは「普通でええねん」とよく言われました。「あれがいいんかな、これがいいんかな」と考えすぎるとボロボロになることもあるので、「これやったら楽しい」と感じる「自分なりの普通」を探し続けています。

今週の喜楽館のように1週間同じ出演が続く時も、毎日違うお客さんだという意識を持ち、3〜5本のネタをその日の空気感で選んで喋っています。

落語のマクラでは、長年親しんできた野球ネタがいまや欠かせなくなりました。特に喜楽館の野球ウイークにはいつも呼んでもらっています。

「おもろいおっさんになりたい」。この人を見てたら楽しくなるとお客さんに思ってもらえるような落語家になりたい。師匠の姿勢から学んだものを、自分のやり方で体現し続けていくつもりです。
(3月26日 神戸新開地・喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

この日の喜楽館昼席で、トリの前に「軽業」を演じた後、染八さんに会議室でお話をうかがいました。
喜楽館の野球ウイークでは、もはやレギュラーのような染八さん。細かい解説や指摘で野球ファンを唸らせ、客席を沸かせています。また茶臼山にあった桂あやめ師匠の会で受付の手伝いをされていたという話を聞いて驚きました。私とチケットの受け渡しをしていたかもしれません。当時、私も茶臼山の落語会に通っていた時期があったからです。
今回のインタビューで特に心に残ったのは、父でもある五代目林家小染師匠が、三者面談の席で語られた言葉です。さまざまな事情や周囲の意見があったとしても、最終的には自分のやりたいこと、進みたい方向に舵を切ることが大切だと、あらためて思いました。同時に。父親としての愛情も感じました。
「お客さんに笑ってもらう」という師匠の教えを胸に、染八さんが目指す「おもろいおっさん」への歩みを、一ファンとして楽しみにしています。
また今後の野球ウイークでも、マニアックな解説を「期待してまっせー!」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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