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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第五十回は桂 紋四郎さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも...?!
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一人で完結する芸を求めて
(桂 紋四郎インタビュー)
本名 迫 優太
生年月日 1988年(昭和63年)2月9日
出身地 大阪府吹田市
入門年月日 2010年(平成22年)9月1日 師匠「三代目 桂 春蝶」
公式X @monshirok
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大阪府吹田市に生まれ、小・中・高と野球を続けた。進学した府立高津高校でも、生活の中心は勉学と野球。勉学を続ける中、エネルギーや環境問題に強い関心を持つようになった。「新エネルギーの研究によって、世の中を救いたい」という気持ちで、大阪大学工学部環境エネルギー工学科へ進学した。当時はまだ東日本大震災の前、日本のエネルギー政策の中心は原子力。原子力工学と環境工学を統合して生まれた新しい学科だった。
大学で学び始めると現実を突きつけられる。太陽光・バイオマスなど新エネルギーでは、今後さらに必要となるエネルギー量の観点で、安定供給が難しい。またそれによって生まれる環境問題もあることを知った。原子力研究の世界も常に賛否の渦中にあった。環境系の研究にも取り組んだが、「自分は、この分野で人生をかけてやりたいのか」その問いに、はっきりと答えることができなかった。
一方で、大学では軽音楽部に入部した。X JAPANやディープ・パープルなどのコピーバンドを掛け持ちし、時にはコミックバンドも組んだ。演奏する時に、曲と曲との合間に即興で話すと客席がよく沸いた。演奏よりも沸いた。
「自分は、喋りの道なら人生をかけて勝負できるかもしれない。」
同時に、複数人が同じ熱量を持って、何かを成し遂げるまで続ける難しさも肌で感じていた。だからこそ「圧倒的に面白いと思えるピンの芸人がいれば、その人の弟子になろう」と決めた。
自分一人で完結する表現。つまり最後の最後は全ての責任を自分で持ちたかった。
そこからは、NGK(なんばグランド花月)や天満天神繁昌亭をはじめ各地の落語会、テレビの公開収録など、あらゆる場所へ足を運んだ。漫談や落語など、ありとあらゆる「ピン芸人」を追いかける日々が始まった。
大阪大学の文化祭で後に師匠になる三代目桂春蝶の高座を聴いた。演目は「山内一豊と千代」という釈ネタ。
「この人、めちゃくちゃおもろい……!」、衝撃だった。その後、4回、5回と春蝶の高座を追いかけた。観るたびに「この人はバケモンや」という確信は強まり「この人の芸を学びたい」と思うようになる。
書籍やネット記事から落語家の入門話を調べると、多くの場合出待ちをして入門志願していることがわかった。2010年5月、千日前の落語会の終演後に「弟子にしてください」と声をかけた。春蝶は「今は忙しいから、7月12日の繁昌亭の出番の日に来なさい」という返答だった。今思えば、様子を見ようという師匠なりの配慮だったのかもしれない。
ところが私は、「入門を許された」と早合点してしまう。翌日には、4月に進学したばかりの大学院の指導教授のもとへ向かい、退学を申し出た。周囲のほぼ全員が進学するからと合格していた大学院だったが、実際に通ったのはわずか3日だった。
退学届を出して師匠のもとへ報告に行くと、「えっ、大学院を辞めてきたんか!!? 」と驚きつつも「ほなしゃーないな」と受け入れてくれた。その夜は師匠のご家族と食事をご一緒させていただき、翌日には大師匠である三代目桂春団治師匠へご挨拶に赴いた。
問題は両親への報告だった。大学院に入学してまもなく「落語家になりたい」と打ち明けると、父は「あんなもん仕事じゃない」と言い切った。それでも師匠への挨拶には同行してくれた。父も母もものすごくへこんでいた。
実直に働いてきた父にとって、息子の決断は想像の範囲を超えていたのだろう。「残念です」とこぼしていた。そんな様子を見て、春蝶は「まともなご両親でよかったね」と受け止めてくれた。
7月12日から見習い、同年9月1日に正式入門となった。私が22歳の時である。この時も春団治師匠へご挨拶に出向いた。

修行期間は4年間、賃貸アパートから大阪市西区の師匠宅へ通った。家の用事をこなしながら、師匠の仕事にはかばん持ちとしてついた。
落語では本当に基本的なところから稽古をつけてもらった。弟子入り以前は、全く落語を学んだことはなかった。落語そのものもそうだが「師匠の芸」や「考え方」を習得したかった。私は「落語家」になりたかったのではなく「桂春蝶の弟子」になりたかった。
師匠が東京に活動の拠点を移してからは、大阪に残って繁昌亭や各地の落語会にて勉強するスタイルに変わった。
師匠が大阪に戻れば、以前と同じように仕事についていく。東京の時は、「明日はこちらの落語会に勉強に行かせていただきます」と報告し、許可を得てから動くという生活が続いた。弟子期間中は自由時間がないのは辛かったが充実した期間だった。
年季明け直後は幸い前座としての出番に恵まれ、なんとか食いつないだ。コロナ禍でもインターネット配信「テレワーク落語」に取り組み、その結果繁昌亭大賞特別賞を受賞した。
逆境をすべて跳ね返す師匠の姿を近くで見てきた結果だと考えている。
目標は常にシンプルで、「より良い落語ができるようになること」「より大きな拍手をいただくこと」。日々新た、日々進むという「日新日進」が母校・高津高校の校是でとても気に入っている。
その一方で「解説」というもう一つの軸を持っている。
落語も、“わかる形”にすることで、もっと多くの人に届くと、YouTube では解説付きの落語動画(桂紋四郎YOUTUBE https://youtube.com/@monshiro)メールマガジン(https://monshirok.jp/fanclub)での落語コラムも力を入れている。
伝統芸能ユニット「霜乃会(そうのかい)」への参加や、インバウンドの外国人向けの相撲観戦ショーのMC(司会進行役)など、伝統文化の魅力を分かりやすく、かつ面白く伝えることは自分にしかできないことだと感じている。
リズムや間とメロディは、万国共通。今まで落語で培った技術をそのまま使えると実感している。あらゆる経験が、最後には落語という一本の道に集約されていくはずだ。そんな師匠の後ろ姿を見てきた。最後の最後は、すべての責任を自分で持つ芸、落語で勝負したい。
(3月19日 神戸新開地・喜楽館にて)

この日は、喜楽館昼席の「桂紋四郎 噺家十五周年 翔ぶトリウイーク@喜楽館」の終演後に会議室でお話を聞きました。紋四郎さんはこの日のトリで「替り目」を演じ、中入り後には春蝶師匠も参加して十五周年の「口上」も行われました。紋四郎さんは、立ち上がって歌を披露。型破りの口上で会場は大いに沸きました。
印象的だったのは、「まともなご両親でよかったね」という春蝶師匠の発言でした。紋四郎さんも反対していたご両親も前を向ける受け止めだと感じたのです。また当たり前かもしれませんが、紋四郎さんに落語の基本中の基本から稽古をつけた点にも興味を惹かれました。
上方落語には、うっかり者もしくは「ボケ」の喜六と、しっかり者もしくは「ツッコミ」の清八が登場します。どちらかと言えば、紋四郎さんは清八タイプになるのでしょう。学業も落語も自身の努力と能力で乗り切ってきたと感じました。伝統芸能に対する解説の仕事が肌に合うにもその一端でしょう。
今後も自身の個性を存分に発揮して、お客さんにも「バケモン」と思ってもらえるような大きな落語家さんになってください。
「期待してまっせ―!」
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。


