神戸新開地・喜楽館

  • 神戸新開地・喜楽館twitter
  • 神戸新開地・喜楽館facebook
  • 神戸新開地・喜楽館Instagram
電話をかける
スマートフォン用メニューを表示する
トップページ > ニュース >  私が落語家になったワケ   >  第三十八回 桂ざこば師匠一筋 <​桂 あおばインタビュー>

2025/11/03

第三十八回 桂ざこば師匠一筋 <​桂 あおばインタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第三十八回は桂 あおばさんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!

—————————————————————-

桂ざこば師匠一筋
(​桂 あおばインタビュー)

 

芸名 ​桂 あおば
本名 ​古本 迅
生年月日 1988年(昭和63)年1月12日
出身地 兵庫県神戸市
入門年月日 ​2010年(平成22年)9月21日 師匠「桂 ざこば」
公式X @aoba_katura0112

—————————————————————-

「活発で明るい、おちょけな子」

僕の親は神戸の板宿で商売をしていて、小学校からは神戸市西区の西神で過ごしていた。過去の通知簿を見返した時に、小学校1年から中学3年まで、先生の所見欄には、「ユーモラス」「人をよく笑かす」「けじめがない」「落ち着きがない」など同様なことが繰り返されていた。

中学校では野球部に入部。練習もそこそこに友達とふざけているばかりで、チームも弱かったし、僕自身もうまくなかった。勉強も全然していなかった。お笑いには特に興味はなかった。滝川第二高校に進んでも相変わらず友人とつるんで楽しく遊んでいた。

「俺は海賊になる」

関西国際大学に入学したが、ほとんど授業にも出ずに、やはり友達と遊んでいた。中学・高校時代に引き続いて大学でも面倒見の良い先生と出会った。「お前、将来どうすんねん」と聞かれて、ボケて「海賊になります」と答えていた。「それなら海上保安庁はどうや」とチラシを渡されたが、「これは逮捕する方やから」と言って断ったこともあった(笑)。実際には就職活動は全くしなかった。

大学時代に何回か居酒屋などでバイトをしたことがあるが、「もう来なくていい」とクビになったこともある。教えられた通りにきちんとやることが苦手だった。親も先生方も「お前は社会人には向いていない」と口を揃えていた。自分でもそう思っていた。

ざこば師匠に手紙を書く

物心ついた時からテレビで見るざこば師匠が大好きだった。18,19歳の頃から漠然と弟子入りしたいと考えていた。その頃は落語家とは知らずに憧れていた。

大学を卒業して友人たちが働きだした瞬間に、僕も弟子入りに動き出した。実際に動楽亭で師匠の噺を聴くと、格別に面白くて他の人とは違う芸をしてるように感じた。

米朝事務所のドアをノックして「ざこばさんの弟子になりたいんですけど」と伝えると、マネージャーさんから「手紙を書いてくれたら渡しますよ」と言われた。コンビニで便箋とペンを買って、「師匠のことが大大大大大好きです」と書いて電話番号とともに持って行った。当然ながら待てども電話は来なかった。

出待ちで弟子入り志願

そこで動楽亭の終演後に出待ちをして弟子入りをお願いした。師匠は「次は何日が俺の出番なので楽屋に来い」と言っていただいた。色々質問してくれて、「なんで落語家になりたいんや」とか、「お前十二支(じゅうにし)言えるか」と聞かれて、「はじめの半分しか言えません」と答えると「お前おもろいな」といったやり取りをしたことを覚えている。

そこから見習いとして5ヶ月ほど師匠についた。2010年(平成22年)9月に名前をいただき正式に入門となった。22歳の時だった。入門前に両親にも会っていただいた。僕が社会に適応していけるか心配していたので安心した様子だった。当時の師匠は弟子をとらないという話を聞いていたので、僕の場合はタイミングが良かったのかもしれない。

怒られ倒す毎日

見習いの頃から、師匠の仕事先に同行させてもらった。やはり師匠の舞台は無茶苦茶面白かった。今でこそ落語の奥深さが分かるけれども、当時は「落語でこんなにウケるんか!」って驚きの連続だった。

しかし師匠からは、いつも怒られていた。常識を身に着けずに入門したので、ご飯の食べ方から物の言い方、それこそ一挙手一投足すべてに注意を受けていた。

例えば、入門当初に師匠の奥さんを「おばちゃん」と呼んだこともあった。「お前、なんで俺の嫁はおばちゃんやねん」、「友達の家に行くとおばちゃんって言います」、「わしとお前は友達か!」などなど。

親や学校の先生に怒られても全く平気だったが、やはり師匠に怒られるのはこたえる。「こんなに世話になってる、かっこいい大人に嫌われたくない」と落ち込むことも多かった。もちろん、師匠だけでなく兄弟子や一門の先輩からも厳しく指導を受けた。「ざこば師匠やなかったら、お前は100%破門になってる」と言われれたこともある。

師匠の弟子期間は普通は2年だが、私だけは3年だった。もう少し面倒を見ようと思ったのかもしれない。

「ウケるのは空気や空気」

落語の稽古は師匠からよくつけていただいた。師匠は「ウケるのは空気や空気」と言われていたが私は理解できていなかった。師匠は動楽亭の開口0番に僕をずっと出させてくれたので舞台数を多く踏めた。師匠の音源を聞いて、僕と同じセリフでもウケ方が違うのはなぜかを考えながら学んだ。

毎日のように怒られて、「やめた方がええんかな」と思った時もあった。師匠は、雰囲気を察してくれたのか、「お前は俺の役に立とうなんて思わんでええ。お前が売れて、おもろい落語してくれたら、それが嬉しいんやから頑張れ」と言ってくれた。この言葉で「絶対サボらんとこう」と心に決めた。近くにいて一番感じたのは、師匠は僕だけでなくて誰に対しても優しい。周囲の人をよく見ていて、グループで喋らない人がいると声をかけたりする。師匠をテレビで観るままだという人もいるが、僕は場をうまく回すのにキレているだけで本当は心底優しい人だと思っている。

師匠を追いかけたい

独り立ちして13年。今までバイトもせずに過ごしてこれたのも、師匠の看板があったことも大きい。小・中学校の先生も高座を見に来てくれたり、一緒に飲みに行くこともある。むかし迷惑をかけた分、恩返ししたいという気持ちは強い。

芸の面では、今でも毎回頭を打ちながらやっている。僕は器用ではないので、舞台でやってみて自分で一歩一歩積み上げていくつもりだ。

いろいろな落語があるが、僕が一番好きなのはやっぱり「ざこば落語」。そこに自分の個性をかけ合わせられたら最高だと思っている。これからまだ30年はある。師匠に近づけるように芸を磨き続けていきたい。
(8/29 神戸新開地の喜楽館にて) 

*「取材を終えて」(楠木新)

喜楽館の会議室でお話を聞きました。親や先生から注意を受けても平気な人は周囲にもいましたが、「バイト先から何度かクビを言い渡された」という発言には、思わず「それは相当ですね」と返してしまいました。

今も当時の先生方が落語会にも足を運んでくれる。あおばさんは、「人には恵まれましたね」と何度も繰り返していました。きっと可愛がられるタイプで、親にも先生にも自然と受け入れられていたのでしょう。

世の中には、互いに物やサービスを売買して利益を得る、いわばヨコの人のつながりがあります。ビジネスや商売関係と言い換えてもいいかもしれません。ところが、ざこば師匠とあおばさんの関係を聞いていると、それとはまったく異なるタテのつながりだということを強く感じました。

常に叱ったり注意したり、ときに落語を教えたりする。そこに対価関係はなく、むしろ親子のような無償の関係性がある。こうしたタテのつながりがあるからこそ、世の中は長く続いていくのだろうと感じました。

落語家としてさらに成長して、親や先生方、ざこば師匠に大きな恩返しができることを「期待してまっせ―!」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

交通案内

アクセスマップ

周辺駐車場マップ

トップへ戻る