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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第三十六回は川上 じゅんさんに
腹話術師になったワケを伺いました!
人生の中で腹話術師になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!
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3足の草鞋を履いた腹話術師
(川上 じゅんインタビュー)
本名 川上 淳
生年月日 1961年(昭和36年)02月23日
出身地 京都市
入門年月日 1985年 師匠 父「川上のぼる」
公式Instagram @kawakami_j
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父・川上のぼるは、日本における腹話術師のパイオニア。1951年、民放ラジオ局・朝日放送の開局にあたり、京都教育大学在学中にスカウトされ、同局の専属タレントとなった。私が子どもの頃から父はスターで、芸人さんやスポーツ選手が家に頻繁に出入りしていた。幼心に「華やかな世界だ」と思っていた。
小学校のお楽しみ会では、親に内緒で腹話術や漫才を披露した。まさに「門前の小僧習わぬ経を読む」で、教わらずとも自然にできた。家にある人形を勝手に持ち出して演じたこともある。中学・高校時代はカントリー音楽が好きで、いとこたちとバンドを組んでライブハウスに出演したこともあった。
18歳から父のかばん持ちを始めた。住み込みのお弟子さんも多かったが、父は身内の私に一番厳しかった。兵庫県の甲子園大学で学んで検査技師の資格を取得。卒業後は臨床検査技師として病院で働いた。その後、茨木の北摂クリニックで健診業務や営業に携わった。平日は仕事中心、土日は趣味として保育所や幼稚園で腹話術を披露していた。
そんな折、北摂クリニックの院長が日本ボクシングコミッションのドクターだった縁で、「興味があればボクシングに関わってみないか」と声をかけられた。ボクシングは好きだったので、グローブ配りや計量補助から始めて28歳でレフリーになった。その後も経験を積んで、現在はA級レフリーとして日本タイトルマッチはすべて担当できる。OPBF(東洋太平洋ボクシング連盟)やWBO(世界ボクシング機構)のタイトル戦もさばくライセンスも持っている。プロの世界に入ったのは、芸人よりも、レフリーの方が先だった。
ボクシングのリングは舞台に似ている。主役はあくまでもボクサーだが、どちらもエンターテインメント性があって非常に面白い。今でも月に1、2回はレフリーやジャッジを続けている。
父はよく「自分の若い頃はテレビやラジオの勃興期でチャンスが多かった。今は5年食えても10年、20年は難しいぞ」と言っていた。社会人であれば安定しているので、アマチュアでやればいいと考えていたのだろう。しかし私は50歳、60歳になった時に、「これをやっておけばよかったのに」と後悔したくなかった。
先にクリニックを辞めてから父に弟子入りを願い出た。父は「1年間私につきなさい」と正式に弟子にしてくれた。大きな土俵でやりたかったので吉本興業を紹介してほしいと父に依頼してプロとしてスタートした。35歳からなので遅い出発だった。

吉本からは「腹話術の仕事はないですよ」と言われた。しばらくして、宮川大助・花子師匠のお芝居に参加させてもらって、劇中で腹話術を披露したりしていた。遅れて飛び込んだ分、10年かかることを3〜4年でやる覚悟であらゆるチャンスに挑んだ。
2年後、吉本興業の劇場支配人の手見せ(オーディション)があった。それをきっかけに梅田花月やNGK(なんばグランド花月)にも出演できるようになった。劇場のギャラは安くても、営業の仕事も入るようになってきた。
また『爆笑レッドカーペット』や『エンタの神様』などのピン芸人を取り上げるテレビ番組にも出演できた。そうすると北海道から九州まで全国的に営業の仕事が入るようになった。やはりテレビの影響は大きかった。
数年前のコロナ禍で、腹話術の舞台も営業も止まり、ボクシングの試合も激減した。すべての仕事がなくなった。学生時代の親友が介護施設のオーナーだった縁で、ヘルパー資格を取り、日勤や夜勤の現場の勤務から始めた。池田市・高槻市を拠点とする「株式会社プラチナライフ」は、グループホームや訪問介護、ケアプランセンターを運営する150人規模の会社だ。
その親友からマネジメントに関わってほしいということで、人員の募集やお金の管理を担当することになって2年前に取締役になった、そして昨年10月には代表取締役社長に就任。親友は代表取締役会長になった。病院や健診機関での10年余りの会社員経験が大きく役立っている。芸能の仕事だけでは社長は務まらなかっただろう。
腹話術はモノマネから入るので、どうしても父に似てくる。お客さんからそう言われることもあった。自分らしさや個性を発揮するために海外のエンタメ映像などを研究した。その結果、本日の喜楽館昼席の舞台のように、マジックの要素を取り入れ、人形を使わない腹話術も生み出した。
また消防士、栄養士、保育士などに向けてワークショップもやっている。腹話術を披露して、子どもたちなどに大切なことをうまく伝えてほしいと考えている。実際には、口は多少動いても良いので、人形の動きや声質の変化、掛け合いの工夫をポイントに教えている。
現在は「芸人」「レフリー」「介護会社経営」の3足の草鞋を履く。「大変そう」、「忙しいでしょう」とよく言われるが、私は楽しくやっている。プラチナライフにはレクリエーション事業部を立ち上げた。介護の現場にお笑いや腹話術を提供することにも力を入れていくつもりだ。
ボクシングのレフリーの定年は70歳。まだ続けることはできるので、世界チャンピオンの友人やスポンサーの方々とのつながりも大切にしていきたい。そこから新たな芸能の仕事が広がることもある。
3つの仕事をうまくコントロールして、楽しみながら相乗効果を高めていきたいと思っている。
(8/13 神戸新開地・喜楽館にて)

今回のインタビューを私は心待ちにしていました。
60年前、小学生の頃に神戸松竹座で観た川上のぼるさんの腹話術の印象が忘れられないからです。特に、演じ終えた後に人形のハリス坊やをトランクにしまう時に、足が挟まって「痛い!」と叫ぶ場面。その声と光景はいまも脳裏に焼き付いています。人形が芸の道具ではなく、本当に生きていると感じていたのです。
この日の喜楽館昼席では、人形を使わずホワイトボードの顔が喋り出す腹話術を披露されました。後ろから見ていると、お客さんの頭上に「?」が浮かんでいるのが見えるようでした。小学生の時に観たらどう感じただろうと想像しました。
川上さんが3つの仕事を同時にこなす姿に驚きました。お話を伺いながら頭の整理が追いつかないほどでした。そのぶん自身の能力を余すことなく発揮できて、それぞれの仕事が互いに気分転換にもなっているのでしょう。私自身もかつて会社員と著述業の二足の草鞋を履いていたので、話の内容に共感することが多かったのです。
川上さんがインタビューの中で一番多く口にした言葉は「楽しい」です。その姿勢がある限り3つの仕事の相乗効果をこれからも高めていかれることでしょう。
「期待してまっせ~!」
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。


