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2025/07/14

第三十回 行動力で切り開く <​​桂 かい枝インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第三十回は、桂 かい枝さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!

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行動力で切り開く
(​​桂 かい枝インタビュー)

 

芸名 桂 かい枝(かつら かいし)
本名 古瀬 浩雄
生年月日 1969年(昭和44)年5月7日
出身地 尼崎市
入門年月日 1994年(平成6年)6月 師匠「五代目桂 文枝」
公式X @katsurakaishi
桂かい枝公式サイト https://katsura-kaishi.jp/
英語落語振興会サイト https://eigo-rakugo.com/
やさしい日本語落語普及委員会サイト https://yasashii-nihongo-rakugo.jp/

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人を楽しませる仕事を

小さい頃から、いちびりで、先生のものまねでクラスの友達に喜んでもらったりしていた。ただ、落語は全然知らずに興味もなかった。就職活動が始まる大学3回生で進路について初めて考えた。

人生には2通りありそうだ。好きなことを趣味としてやるのか、仕事としてやるのかという選択。自分は後者の方で、失敗しようが成功しようが、納得がいくだろうという感覚があった。群馬県の高崎経済大学に通っていた時に、学園祭で少し漫才などを披露していた。やはり人を楽しませるお笑いの世界かなと思っていた。

「弟子育てに定評がある」

実家の尼崎に帰省するたびに、演芸場や落語会を見て廻った。NGK(なんばグランド花月)で桂文珍師匠の落語が、漫才の間で、どかんどかんとウケる様子を目の当たりにした。「落語は一人でできるし、これはすごいな!」と集中して落語を聴くようになった。

その中で、当時の五代目桂文枝師匠の高座に出会って、のびのびとした芸風に惹かれた。文珍師匠の師匠でもある。落語家辞典の師匠の個所には、「三枝、きん枝、文珍などを育て、弟子育てに定評がある」と記載されていた。「この人だったら、きちんと育ててくれそうだ」という安易な考えが頭に浮かんだ。そこで師匠に弟子入り志願の手紙を書いた。返信用封筒も同封したが当然返事はなかった。

すんなり入門が決まる

大学を卒業して、大阪市の弁天町での落語会に出向いた。終演後にエレベーター前で土下座をしたら、うちの師匠が「わかった、わかった。立ちなさい」と車に乗せて、次の仕事先まで連れて行ってくれた。

「手紙をくれた子か?」と聞かれて、「そうです」と答えると、「あのな、噺家ちゅうのはな、サラリーマンやないねんから」と叱られた。最後に「じゃあ履歴書を送ってくれるか」(それサラリーマンですよ)。そういうギャグもありつつ、私の話を聴いてくれた。

ちょうど文三兄さんが年季の明けるタイミングだったのが良かった。その日に、「今度は親を連れてきなさい」と言われて、親と一緒に挨拶に伺って入門が決まった。25歳の時だった。

「落語で商売できたらええねん」

師匠の家の近くにアパートを借りて、毎日通った。朝は少し遅くて11時に師匠の家に入って、宴席のある時は、夜遅くに師匠の家まで車でお送りすることも多かった。

入門当初は、「芸人は面白くないといけない」と思って喋っていると「お前な、いらんこと言わんでええねん」とよく怒られた。芸人は舞台できちんと喋ればよいというスタンスだった。そのため僕は途端に大人しくなった。今でも周囲から「お前、修行中は陰気やったな」と言われるが、師匠の教えを守っていたからだ。

私は入門するまで一切落語を演じたことがなかったので、「お前は人の3倍努力せえ」と言われた。師匠や兄弟子の落語を見よう見まねで学んだり、落語のカセットテープを聴き込んだり、どちらかというと感覚だけでやってきた。

うちの師匠は、「別に古典落語をやらんでもええ、落語で商売できたらええねん」という考えだった。だから筆頭弟子の六代 桂文枝師匠は新作落語、文福兄さんは河内音頭で、あやめ姉さんは女流の新作落語、僕は僕で英語落語をやっている。師匠は弟子のやることを否定しなかった。「弟子育てに定評がある」という意味が後になってわかった。

英語落語で全米を廻る

入門して3年目。三宮の外国人の集まるバーで喋っていた時に、落語についてうまく英語で伝えられなかった。元々英語は好きだったので、どう表現すればよいかと思案していた。その頃に日本笑い学会の女性研究者が海外で落語を開きたいという話があって、すぐに飛び乗った。1998年にアメリカで初めての公演。そこから積極的に英語落語に取り組んだ。先輩からは「日本語の落語もできんくせに」と言われたが、僕は面白いと思ったこと
はすぐに行動に移すタイプ。

英語落語を初めて10年。文化庁の文化交流使に任命された。2008年に渡米して、1年間かけて全米33州を回るアメリカツアーを敢行した。キャンピングカーであちこち回りながら、ニューヨークのスタンドアップコメディの小屋や、各地の日米協会、領事館絡みの行事や、学校や大学で英語落語を披露してきた。

日米で笑う個所は変わらないが、英語は主張、日本語は協調、といったそれぞれ背景とする文化の違いがある。はじめは、アメリカ人にとって、私の英語が自信なさげに映ったそうだ。そこから思い切って自分を押し出すように演じると大いにウケるようになった。ただ帰国して、同じ調子でやると繁昌亭ではウケない。寄席三味線のお姉さんから「あんた、前へ出過ぎや」と注意を受けた。日米の文化の違いを学べたのも財産だ。

新たな欲をもって取り組みたい

30代は自分のポジションを得るために、ラジオのレギュラーをやって、獲得できる賞は全部取ろうという気持ちで取り組んだ。手帳に目標を書いて達成できるように頑張った。若い時から英語落語をやっていたので、それだけではないことを示しておきたかった。当時は、結構ストレスを抱えていた。

ただアメリカから帰国した40代以降は、英語落語が小・中学校の教科書に掲載されたり、NHKのEテレに出演したり、大きなホールや学校の芸術鑑賞会に呼ばれたりして、仕事が非常に増えた。ありがたいことだが、そこにあぐらをかいてしまう自分もいた。

芸歴30年を迎えて、落語のレベルや落語家のポジションをもう一段階上げる必要を感じている。もっと面白いことや話題作りもしていかなければならない。久しぶりに手帳に目標を書く時期に来たと感じている。

昨日もNGK で六代桂文枝師匠と一緒だったが、出番ではステージの手前から舞台にぽんと飛んで走って出る。82歳でも「俺は若いぞ」と見せることでお客さんも乗ってくる。また楽屋ではずっと自らネタを書いていた。自分の表現欲であり、いつまでもお客さんを笑わしたいという欲なのだろう。

この6月から新宿の「ルミネtheよしもと」にも出番を持つ。新たな欲をもって、NGKとともに東西の演芸場でお客さんに楽しんでもらいたい。吉本興業の中でもポジションを確立して、ひいては上方落語を牽引できるよう研鑽していきたい。
(5/22 神戸新開地の喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

喜楽館の会議室で、テンポよくお話をいただきました。内容も幅広くて多岐にわたっていたので、残念ながら割愛した話もいくつかありました。

かい枝さんの話で一番印象的だったのは、フットワークが軽く行動的だということでした。落語を演じた経験がなくても師匠に土下座をして弟子入り志願する、海外で英語落語を披露できる機会があると聞けば自ら飛び込んでみる。また若手時代に、放送局のディレクターが、「録音した落語を自由に聴きに来てくれたらいい」と話してくれたので、頻繁に放送局に顔を出していると、それが縁でラジオのレギュラーを任せてもらったそうです。

ビジネスマンの取材でも、足が動く人と動かない人の差が大きいことを実感してきました。特に定年後にそれがはっきり現れます。やはり評論家ではなく、当事者になることが大切だと再認識しました。

かい枝さんは、2004年の文化庁芸術祭演芸部門新人賞、咲くやこの花賞を皮切りに、 NHK新人演芸大賞や第1回繁昌亭大賞爆笑賞、第5回繁昌亭大賞創作賞、第11回繁昌亭大賞奨励賞、2018年には、第13回繁昌亭大賞を受賞しています。脂の乗り切った年代を迎えて、さらに大きな舞台で活躍されることを「期待してまっせ―!」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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