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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第三十一回は、桂 ぽんぽ娘さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!
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周囲に助けられてピンク落語に出会う
(桂 ぽんぽ娘インタビュー)
本名 石川 百合子
生年月日 1979年(昭和54)年8月22日
出身地 東京都
入門年月日 2006年(平成18年)10月1日) 師匠「桂 文福」
公式X @katsuraponpoco
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東京都葛飾区で生まれて、25歳まで東京にいました。いじめられっ子で、あまり楽しくない子ども時代でした。小学6年生の時に吉本新喜劇をテレビで初めて観て衝撃を受けました。間寛平さんが、杖をついてよろよろと歩くおじいちゃん役で登場するのですが、私はドキュメンタリーだと思ったのです。
学校でも家でもうまくいかない自分自身と寛平さんが重なりました。しかし劇中の寛平さんは、皆にすごく大事にされて、愛されていたので驚いたのです。調べてみると、お笑いという仕事があると知り、私もやってみたいという夢ができました。お祖母ちゃんに話すと、「そんなのうまくいくはずがない」と一蹴されました。
高校は地域の人が知らない私立の女子校に通いました。入学後は友達もできて気分も落ち着きました。その後は短大に通って栄養士の資格を取得。19歳で高校時代のお笑い好きの仲間とプロダクションのオーディションを受けて合格しました。4人組でしたが、2人はプロになるつもりはなく、コンビを組んだもう一人は看護師の資格を取ると離れていきました。短大を卒業する直前に解散になりました。
その時にNSC(吉本総合芸能学院)に行きたかったのですが、入学金、授業料で40万円。浅草の漫才協団(今の漫才協会)は無料だったので、「夫婦漫才の東京太・ゆめ子」のゆめこ師匠に弟子入りしたのが20歳の時です。
当初は漫談で、22歳で先輩と結婚して夫婦漫才をやりました。その後、師匠とうまくいかないことがあって破門のような形になりました。私が100%悪かったのです。25歳で離婚して漫才も解散。また一人になってしまいました。
先輩から名古屋の大須演芸場を紹介されて楽屋に住み込みました。1日2回公演で漫談をやって、住み込みの食事代と交通費を含めて、1ヶ月20日出演して10万円。東京の家賃を払うとぎりぎりの生活でした。雷門獅篭(現在の登龍亭獅篭)師匠が、「今の時代はメイドカフェだ」ということで、メイドのコスプレで漫談をやっていました。
毎年8月に露の団四郎師匠が怪談話で大須演芸場に出演される。私も色物で出ていました。桂文福師匠が来られて、終演後に、出演者たちも一緒に食事に行きました。
楽屋に戻ると、露の団六師匠が「文福兄さんが君のこと気に入っていたから、お礼状書いたら仕事くれるで」。文福師匠はコスプレが大好きで、おまけにぽっちゃりした女性が好みなのでストライクだったのかもしれません(笑)。私がお礼状を書いたことがないというと、「おっちゃんが書いとったるわ」と私の名前で礼状を書いてくださった(と思う)。
翌月に文福師匠から連絡があって、11月に大阪での仕事に行きました。周囲から「誰ですか?」と聞かれると、文福師匠は「弟子や」と発言。私は「なんで?」と思いました。「弟子にしてください」と一言も言っていなかったからです。
浅草にいた時に、落語はバリバリの男社会で甘い世界じゃないとわかっていました。しかも27歳の東京弁の女が上方で通用するわけがありません。雷門獅篭師匠に「どうやったら穏便に辞められますか?」と相談すると、「お前は、今まで人生を2択で考えて失敗している。逆に入門したらうまくいくかもしれない。3年間の人生を棒に振ってみたら」と言われて、なぜか腑に落ちました。今となっては文福師匠の言葉がどれだけありがたいことかがわかりますが、当時は私の視野が本当に狭かったのです。

最初は、文福師匠から『十徳』、『寿限無』『平林』の稽古をつけてもらいました。関西弁は使わなくてよいと言われました。弟子になってからは、師匠と一緒の仕事が多くて、地方では、マクラを長く振って結構ウケる。でも落語ファンが集う大阪の落語会では全くウケません。アンケートに「男を演じても男が喋っているように聞こえない」などと書かれました。
桂あやめ師匠が新作落語を演じているのを観て、初めて作った新作落語が下ネタでした。文福師匠に聴いてもらうと、「桂という名前を使いたかったら二度とやるな」と初めて師匠に怒られました。心が折れてしまって、その頃に今の夫と知り合ったので、31歳で結婚、32歳で子どもを産んで、しばらくは落語よりも子育ての方がメインになりました。
入門7年目ぐらいに、やはり古典落語をやっていないとこれから苦労すると周囲から言われたので、本気で取り組みました、10周年に繁昌亭で『ふぐ鍋』を演じた時に、鍋をつかんで湯気を目線で追うと、その先の客席のほとんどの人が寝ていたのです。
10年間自分は何をやってきたのだろうと頭を抱えました。「やはり落語は向いていない」と文福師匠に相談しました。師匠は、「自分は元々吃音や訛りがあったが、それでもやってこれたのは、大相撲や河内音頭などの好きなことを前面に出したからだ。お前は何がしたいんや」と聞かれて、「私は男性が好きです」と答えると、「ほんならそれでいけ」と後押ししてくださったので、それからピンク落語に切り替えました。
落語『持参金』を聴いたときに、登場する容姿が悪い女性が気の毒で、彼女に感情移入して全然笑えませんでした。逆に女性が男性に仕返しするようなエロい噺を作ってやろうと思ったのがピンク落語を始めたきっかけです。
今でこそ夫に出会えてすごく幸せなんですけど、それまでは楽しい思い出が1つもありませんでした。男性に都合よく扱われたというか、私もすごく男性に依存していてうまくいかなかった。嫌な言葉を投げつけられたり、色々傷ついて泣くことも多かったのです。
今までのコンプレックスを基に、過去に戻って当時の自分に声をかけて、全国のどこかにいる私のような女性だけでも笑ってくれる新作落語を創りたい。初めは自身の被害者意識から女性のことばかり考えていましたが、男性も同様に大変だと気が付きました。
今でも悲しい時や落ち込む時がありますが、そういうときこそネタが書けるのです。自分で噺やネタを作って演じるので、ウケるとすごく楽しい。私なりの居場所が見つかりました。ただ、本日お話したように、多くの人に手を差し伸べてもらって今の自分があります。感謝の気持ちを忘れずに落語に取り組みます。
(5/29 神戸新開地の喜楽館にて)

今回は、真摯にかつ率直に語っていただきました。舞台とは異なる素顔を垣間見ることができました。
私が初めて、桂ぽんぽ娘さんを知ったのは、喜楽館の中入り時。ぽんぽ娘さんが先輩の手ぬぐいなどのグッズを販売しているときでした。「えぇ!本当に買うんですか?原価は安いですよ」「買って大丈夫ですか?品質は保証できません」と言いながら会場をまわると、笑いとともにお客さんの手が次々と上がりました。かつて新開地界隈にいた啖呵売の人たちの記憶が戻ってきました。
話の中で印象的だったのが、雷門獅篭師匠の「お前は、今まで人生を2択で考えて失敗している。3年間の人生を棒に振ってみたら」とのくだりです。私は会社員の取材を長く続けてきましたが、「会社を辞めるか、残るか」の二者択一の選択で迷っている人は、だいたい追い込まれている状態なのです。そういう時は、一度立ち止まって自分を深める機会にするとうまくいきます。獅篭師匠はそれを端的にぽんぽ娘さんに示していました。
寄席に来ているお客さんも表面上は悩みがないように見えても、不安やストレスを抱えている人は少なくないと思います。ぽんぽ娘さんの自らの体験も織り込んだピンク落語は、お客さんに幅広く伝わるのではないでしょうか。
「期待してまっせ―!」
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。


