ニュース
執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第二十九回はリピート山中さんに
『笑いと涙の吟遊詩人』になったワケを伺いました!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!
—————————————————————-
人との出会いで音楽活動が広がる
(リピート山中インタビュー)
—————————————————————-
僕には3歳違いの兄貴がいて、同じ部屋でラジカセを通して、グループサウンズやフォークソングに馴染んでいた。小6の時に、兄貴が持ち込んだギターを我流でつま弾くようになった。中1からは、文化祭やクラスの行事で歌い、中学卒業時には、深夜放送のMBSヤングタウンのアマチュアバンドのコーナーにも出演した。
神戸西高校に入学する頃からオリジナル曲を作り始めていた。王子動物園の横にあった神戸市児童文化会館で自主開催のコンサートを開いたこともある。入場料をもらって、カセットテープに録音したアルバムを売っていた。当時は、フォーク・クルセダーズやかぐや姫、井上陽水などに憧れていた。一生、ギターを抱えて歌いながら全国を旅できればという理想像があった。同時に石にかじりついてもプロになるんだとか、東京で一旗あげるまでは帰らないぞ、といった悲壮感はなかった。高校には普通に通いながら、休日や放課後に活動していた。
落語家の場合は、明確な徒弟制度があって、師匠に入門した時からプロとして扱われる。音楽はそういう制度はないし、国家試験もない。「今からプロの歌手だ」と宣言すれば、プロにはなれるが食えない人も多い。神戸学院大学法学部の卒業時には、就職は全く考えなかった。音楽を通じて出会った人が紹介してくれた印刷会社でアルバイトをしながら音楽活動を続けていた。
一方で、僕は小さい頃から演芸や落語にも興味があった。26、27歳の頃に、古典落語『七度狐』を現在に置き換えた続編を8ミリ映画で撮ろうと思い立った。その頃に、この喜楽館に近い西橘自治会館で、桂雀三郎、桂花枝(現、あやめ)、林家染八(後の小染)といった落語家さんが出演する落語会に足を運んだ。もう爆笑の連続だった。「こんなおもろい人たちが、テレビでもラジオでもない世界にいるのだ」とカルチャーショックを受けた。
終了後に、楽屋で「こんな映画を考えていますが、協力していただけませんか?」と雀三郎師匠にお願いすると快諾をいただいた。
その8ミリ映画は途中で挫折したが、僕は落語の面白さに惹かれて、自主的に雀三郎師匠の落語会の世話人やお手伝いを始めた。それこそ弟子入りに近い気持ちだった。ある日、雀三郎師匠から「一度活弁をやってみたい」と言われた。それをきっかけに撮った桂雀三郎主演の8ミリ映画『アルカリキッド・トンで火に入る夏の豚』で、1989年度の伊丹映画祭「第六回グリーンリボン賞」銅賞をいただいた。
また雀三郎師匠から「ギターを弾きたい」という話があって、僕が作詞・作曲した曲を稽古して、人前でやるとドカンとウケた。1996年に5曲入りのCDを作って自主製作で発売すると、結構評判を呼んだ。そのうちの一曲が『ヨーデル(焼肉)食べ放題』(桂雀三郎withまんぷくブラザーズ)だった。
上岡龍太郎師匠が「面白い」とラジオなどで取り上げてくれたこともあって、東芝EMIから全国発売になった。コンサートにも多くのお客さんが入ってくれた。
発売から4年後、2000年6月のニッポン放送『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』でオンエアされると、『ヨーデル食べ放題』の人気に火が点いて、15万枚のヒットになった。
屋内コンサートだけでなく、改装前の品川駅の貨物専用ホームで、ラジオのリスナーと一緒に焼肉を食べながら歌うという生放送のイベントや、映画『ウォーターボーイズ』の中で、主役の妻夫木聡が映画内で口ずさんでくれたり、任天堂のゲーム『ドンキーコンガ3』の中にも取り入れられた。
また2001年度、長嶋茂雄監督の最後の年に、ジャイアンツ公式応援ダンスソング『ヨーデル勝ち放題』(『ヨーデル食べ放題』を改変)を制作して、桂雀三郎withまんぷくブラザーズでレコーディング。東京ドーム公式戦の応援タイムで、バックスクリーンに我々の顔がバーンと映し出された。また2015年3月からはJR大阪環状線の鶴橋駅の発車メロディにもなるなど、『ヨーデル食べ放題』から派生する様々な仕事や出来事も経験できた。
振り返ってみると、雀三郎師匠に出会って以来、いつも師匠は僕の持っている才能を信頼して、落語会での対談企画の司会役や、落語会で発表する8ミリ映画(噺家王アルカリキッド・3部作)の監督を任せてくれた。また僕が作詞・作曲したオリジナルソングを気に入って歌ってくれた。僕にとっては表舞台に引き上げてくれた1番の恩人である。
音楽においては、『受験生ブルース』で有名なフォークシンガーの高石ともやさんも私にとって師匠のような存在だった。『ヨーデル食べ放題』を出した頃に。高石さんのコンサート前のリハーサル中に、たまたま出会ったことがきっかけでご縁ができた。
その後、彼のコンサートで歌う機会をいただいてから、一緒に合宿して練習したこともある。間違った点や足らない点を指摘されてよく怒られた。普段は優しいが、音楽に関しては非常に厳しい人だった。そこまで僕にエネルギーを傾けてくれたのは本当に感謝でしかない。
マラソン大会の前夜祭などで、一緒に演奏することも多かったが、ギター1本でお客さんに何をどう伝えるかということを学んだ。歌い上げるのではなく、「歌は語れ、語りは歌え」というスタンスだったので、同じ舞台に立って学べることも多かった。もともとフォークシンガーは北山修さんをはじめMCの達人も多いが、語りや話の間合いについては落語などの演芸にも通じるものがあると感じた。高石ともやさんとのご縁でソロとしての活動の場が広がった。
本日の喜楽館昼席のように、ピンで「青春フォーク漫談」を披露することもあれば、噺家バンド「ホーンなあほな」のようにグループで舞台に立つこともある。
いろいろな巡りあわせの中で、仕事が広がる。医師との出会いを通じてメディカルソングという医療に関する歌が出来たり、医療や健康関係のイベントに呼ばれて歌うこともある。在宅医療の医師に同行して患者さんの枕元や病室で唄う『往診コンサート』も機会を作って開催している。またお寺や福祉関係の施設に行ってコンサートを行うこともある。
自身でコンサートを企画・開催するというよりは、お客さんの要望や求めに応じて歌を提供する音楽活動が中心になっている。ライフワークとしては、2004年から『北アルプス・八ヶ岳・夏の山小屋コンサート』を続けている。歌を通して、お客さんに喜んでもらえる活動をこれからもやっていきたい。
(5/7 神戸新開地の喜楽館にて)
この日の喜楽館昼席では、「南こうせつとかぐや姫」の『神田川』を歌ってくれました。当時、浜村淳さんが、この歌の歌詞を得意の語り口調で喋っていたのを思い出しました。受験勉強に身が入らずラジオを聴いた時でした。
同じ昼席では、噺家バンド「ホーンなあほな」は、『ええとこ、ええとこ、喜楽館』の曲も披露してくれました。リピート山中さんが、落語家さんたちの中で率先してボケていたことにも驚きました、シンガーという枠にとどまっていないと感じました。
現在70歳の私にとっては、『神田川』のような若い頃に何度も聞いた曲は思い出と結びついています。昭和歌謡やフォークソングなどの曲を聴きたいと求めている人も多いでしょう。しかもそこに笑いが包まれれば申し分ありません。
リピート山中さんには、ぜひ多くの人の求めに応じて歌い続けてほしいと思いました。
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。