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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第二十八回は笑福亭 鶴笑さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!
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松鶴師匠の教え
(笑福亭 鶴笑インタビュー)
本名 金田 久和
生年月日 1960年(昭和35年)5月2日
出身地 兵庫県
入門年月日 1984年(昭和59年) 師匠「六代目 笑福亭 松鶴」
公式X @kakushow1960
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兵庫県の八鹿高校を卒業後、大阪で自分に合う仕事を探そうと、水商売、流れ作業の工場、運送業、喫茶店、石焼き芋の販売などに取り組んだ。しかしすぐに面白くなくなって続かない。以前数えてみると、6年間で36、7件の仕事をやった。
周囲の友人も仕事が忙しくなり、結婚したりして離れていく。自由を求めていたのに、その自由が重荷になってきて、「真面目になんかせなあかんな」と思っていた。
浅草の映画館で『男はつらいよ』に出演していた笑福亭松鶴師匠を見た瞬間に「この人や!この人に怒ってもらおう」と惹き込まれた。テレビの『どてらい男』を観ていたので落語家であることは知っていた。
すぐに大阪に戻って、人に聞きまわって師匠の自宅を何とか見つけた。勇気を振り絞って、外から大きな声で「弟子にしてください!」と叫ぶと、師匠は二階から「帰れ!帰れ!」。10日ぐらいして、「もうあんた、あの子毎日来てるで。ちゃんと話をしたりぃな」という奥さんの声が聞こえて「入ってこい」となった。
「ワシの落語聞いたことあんのか?」「いや、ないです」。正直言って、お笑いにも落語にも全く関心がなかった。師匠は、地方出身だから大阪弁の問題もあるし、「やめとき」を繰り返した。「僕は、もう落語家になろうと思いません。師匠のおそばにおれたらそれでいいんです」と言うと、師匠の顔色が変わった。「親は許してんのか?」、「了解しています(と噓をついた)」。
両親とも学校の先生をしていたが、「これでやっと息子と連絡が取れる」と賛成してくれ
た。親父が「よろしくお願いします」と師匠に頭を下げて入門が決まった。1984年7月1日、24歳の時である。
住み込みの弟子で、早朝に窓を開けて空気を入れ替えることから1日が始まり、庭の水まき、食事の準備、掃除、犬の散歩、買い物などの用事をして、師匠の寝床の準備まで休む暇もなかった。落語の稽古をする余裕もないし、する気もなかった。
師匠から毎日庭に水をまくように言われので、雨の日も傘をさして水まきをした。師匠は履物にうるさかったので、玄関に多くの履物をずらっと並べて準備をしていると、「ワシャ、ムカデか!」と怒鳴られた。
師匠にはよく怒られたが、夜にお茶を持っていくと、「お前はほんまにええやつやな、ありがとう、ありがとう」と飲んでくれた。こちらが師匠の本当の姿だったと思う。
松鶴師匠は、舞台でガーッと喋って、お客さんを笑わかして、すっと帰っていく。本当にかっこよくて、落語ってすごいものだと徐々にやりたくなった。
初めの舞台を踏むのに1年かかった。師匠は、「エエか、松鶴は2人もいらんねん。鶴瓶を見てみぃ、あれも落語や。お前はお前の落語をやったらええ」と言ってくれた。
師匠は僕が落語に目覚めるまで待ってくれていた。当初から「あれせえ、これせえ」と教えられたら僕は辞めていたかもしれない。入門して1年して、「松葉(死後7代目松鶴を追贈)のところに稽古に行って、旅ネタの「発端」から始めろ」と指示された。松葉兄さんは普段は優しいが、落語の稽古になると本当に怖かった。
古典落語の『平林』、『動物園』、『煮売屋』を覚えてやるようになったが、お客さんにウケようと一部を変える。そうすると先輩から落語を崩すなという注意を受けた。落語は伝統芸能なので、それは当然のことだ。ただ僕は少し窮屈だと感じていた。
松鶴師匠は、入門してから2年あまりで亡くなった。はじめの1年は元気だったが、あとは病気がちで、僕はずっと病院に寝泊まりしていたこともあった。師匠が亡くなると、弟子の僕には仕事が廻ってこない。それもあって新作落語に力を入れ始めた。
1番最初は、童謡・唱歌の「権兵衛さんの赤ちゃん」をもじった踊るネタでウケた。その頃に、桂あやめさんから創作落語会のメンバーに入らないかと声がかかった。新作を毎月1本ずつ披露した。自分が創作したものがウケると、意欲がどんどん湧いてきた。
当時の心斎橋筋2丁目劇場は、ダウンタウンを筆頭に若手漫才師が、お客さんを巻き込んでブームを起こしていた。しかし落語は中高生などの若いお客さんには全くウケない。僕は、2丁目劇場の舞台でも楽屋でも全く孤立無援だった。30歳手前の頃である。
悩んで、怪獣の人形と犬の人形を持って舞台に立つと、全然噺を聞いていなかった前列の女の子が笑っていた。ぬいぐるみだけでは人形劇なので、相方に自らの膝を使った。「膝小僧の大冒険」がパペット落語の第一号になった。それから悟空を自分で作成して、こっちの膝も使えるぞとか、ひっくり返ってとか、どんどん進化していった。それに応じてお客さんは面白い、面白いと笑ってくれる。これは僕の生きる道じゃないかと思った。
しかし吉本の劇場ではウケても、「あんなのは落語じゃない」「お前は魂を売ったのか」という声もあった。やっぱり世界に通じる、誰でも笑えるような芸人になろうと海外に行き始めた。当初は差別的な取り扱いも受けたが、海外では面白いとわかれば率直に拍手をしてくれる。少し自信がついてからパペット落語を披露するようになった。
その様子が、生放送でカナダ、全米のテレビに流れたこともある。そうすると、車から声をかけられたり、コメディクラブからオファーももらった。著名なプロデューサーから、「お前にはオリジナリティがある」と評価された。松鶴師匠の「お前はお前の落語をやったらええ」という教えが頭に浮かんだ。
その後、40歳からシンガポールで4年、ロンドンに4年と、8年間家族と一緒に海外で過ごした。大阪に繁昌亭ができるので、寄席にはいろいろな芸が求められる。帰って来てくれないかという話があって帰国した。
帰国した当初は、寄席でも赤字の色物の扱いだったが、最近は落語としてトリを務めさせもらうこともある。以前、米朝師匠が、落語はかつて大道芸から始まって、いろんな道具を使ったりしてやっていた。そういう意味では、「鶴笑は、落語の原点をやっている」と言っていただいた。
「70歳、80歳になってもパペット落語を続けてほしい」というお客さんの声をいただくことがある。喜んでくれる人がいる限り、僕は一生やり続けたいと思っている。
(4/17 神戸新開地喜楽館にて)
この日の喜楽館の昼席では、鶴笑師匠は、パペット落語「時・ゴジラ」を披露して客席を大いに沸かしてくれました。
以前、同年代の仲間で喜楽館に来た時に、鶴笑師匠のパペット落語を一緒に観ました。会場は大爆笑でしたが、「笑うけど、なぜか泣けてくる」という友人がいました。実は、私も笑いながら涙が出ていました。
その話を師匠にすると、「最近、そういうお客さんが多いんですよ。パペット落語はもちろん滑稽話で、人情話ではないんですけどね」と答えてくれました。
還暦を過ぎた同年代の鶴笑師匠が、人形と一緒になって頑張っている姿が感動を呼んでいるのでしょう。しかも師匠の手作りの人形や小道具が見るたびに進歩していることにも心が動くのです。
若い頃に、鶴笑師匠が浅草で観た『男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎』をあらためて観ました。映画の中では松鶴師匠は中心人物ではありませんが、鶴笑師匠には大きなインパクトを与えたのでしょう。「もしその映画を浅草で観ていなかったら?」とお聞きすると、「とてつもない悪いやつになっていたかもしれません」と笑っていました。
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。