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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第二十七回は林家 染吉さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!
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お客さんを大切に
(林家 染吉インタビュー)
本名 松田 宜幸
生年月日 1981年(昭和56)年9月15日
出身地 三重県
入門年月日 2007年(平成19年)8月16日 師匠「林家 染丸」
公式X @hayashiyasome
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南山大学に入学した日に、落語研究会の女性から「部員と一緒にお花見に行きませんか?」と声をかけられた。それに惹かれただけで、落語に全く関心はなかった。入部すると上下関係が厳しくて、すぐに辞めたいと思ったが、落語に接するうちに興味が出てきた。偉そうにしている先輩に負けたくないという闘争心も芽生えてきた。しばらくすると、落語の演芸場に行くために上京することもあった。
名古屋のお寺で、「含笑長屋」という落語会があって、落研の部員が手伝いに行っていた。私が3回生の時に林家染丸師匠が出演していた。こんなすごい人がいるのだと驚いて学園祭の寄席に出演いただくことになった。
その日の前座の私は、江戸落語『長命』で大きくすべった。次の染二兄さんは、『手水(ちょうず)廻し』で場を盛り上げてくれた。最後に染丸師匠が登場して、力を抜いてふわっと『寝床』を演じると、会場がひっくり返るくらいの大爆笑になった。お話しする機会はなかったが、目が合えば、師匠は、にこっと笑ってくれた。
染二兄さんは、前座の噺を終えた私に、「おお、うまいな。あんなのプロでも喋られへんで」と言ってくれた。それを真に受けて落語家になることを真剣に考え始めた。弟子入り後、染二兄さんに聞くと「覚えていない(笑)」。
師匠の運転手をする機会もあるだろうと免許を取得した。また弟子期間の3年間大阪で1人暮らしできる資金を貯めるために卒業後もバイトを続けた。昼間は、スーパーのレジ打ち、夜はコンビニで働いた。企業や役所への就職活動は全く考えなかった。
大学を卒業して2年後、染丸師匠が繁昌亭の出番の日に弟子入りのお願いに行くと、終演後にお弟子さんたちとの打ち上げに連れていってくれた。
師匠とは言葉を交わさずに、竹丸兄さんや染左兄さんから「なんでうちの師匠のところに入門したいの?」とかいろいろと聞かれた。師匠はチラチラ横目で私の様子を見ていたそうだ。お酒も飲まずに、「どうなんだろう。どうなるのだろう」と思いながらその場にいた。お開きの際に、師匠から「明日午後に来なさい」と告げられた。
翌日、師匠の自宅で履歴書を書くように言われて、いろいろとお話をしたが、緊張もあって何を喋ったかは覚えていない。最後に「ほな、やってみるか」と言っていただいた。
当時の染丸師匠は、寄席などで落語をこなしながら、NHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」(2007年)の落語監修・指導を行い、自らも出演した。毎日のようにNHK大阪放送局に出向いて休みもなかった。当時は弟子がいなかったので、鞄持ちが必要だったのかもしれない。両親は弟子入りについて反対しなかった。むしろフリーターのままで働いているのがストレスだったようだ。
師匠の三味線のお稽古の会で、生徒さんの前で弟子の認可書をいただいた。嬉しくて思わず涙がこぼれたが、師匠からは「泣くな」と怒られた。2007年8月、26歳だった。
2年4か月の弟子生活は余裕のない毎日だった。朝10時に師匠の家に行き、帰りが深夜に及ぶこともよくあった。1日のうちに、いろいろなことで怒られた。例えば、朝ごはんでは、包丁の持ち方から切り方、味付けの仕方も教えてもらった。楽屋では、笑っただけで怒られて、会話に入ると注意を受けた。前座の立場をわきまえろということだ。お茶の入れ方、出し方をはじめ、着物の畳み方、挨拶の仕方も指導を受けた。
また、師匠の落語や立ち振る舞いを身近に感じることができた。NHKの「ちりとてちん」の収録現場にも立ち会えて、プロの演技をまじかで見ることもできた。NHKの収録と収録の合間に楽屋で落語の稽古をつけてもらったこともある。三重県桑名市の出身なので大阪弁のイントネーションへの修正にも苦労した。
年に一度か二度の休みの日も、台本を覚えることや、繁昌亭での楽屋番に入ることになった。とにかく忙しくて充実した修行期間だった。
私は繁昌亭ができて1年後に入門したが、年季が明けた時も繁昌亭は引き続き満席の毎日だった。いろいろな先輩から落語会の前座の声がかかって、休みのない日が続いた。私たちは「年季明けバブル」と呼んでいた。お客さんがたくさん入ると、よく笑ってくれる。一方で、先輩方から、「もう今だけやで、こんなんは。お客さんも緩やかに少なくなっていくからな」とよく言われた。
後に、それを実感することになった。定期的に落語会を催してもお客さんが徐々に減っていく。師匠のお客さんなのに、自分の落語を聴きに来てくれていると勘違いしていたのかもしれない。毎年、お客さんを3人でも4人でも着実に増やしていけば10年で40人になると思い直した。
それを一番感じたのはコロナ禍の時。一旦すべての落語会がなくなり、コロナが明けた後の落語会、勉強会では、お客さんの顔ぶれも大きく変わった。来場してくれることがどれだけありがたいかを痛感した。
お客さんをとにかく大切にして、応援される噺家になりたい。私は特別に落語が上手いわけでもなく、ずば抜けて面白いわけでもない。お客さんに感謝の気持ちをもって一生懸命に高座を務める、落語会などの案内やお礼もきちんと届けるといった基本的な活動を繰り返していきたい。それは修行中に師匠から教えられたことそのものだ。
当然ながら落語の技量も磨いていかなければならない。バージョンアップも必要になってくる。最近は、創作落語や怪談噺にも取り組んでいる。芝居が好きで入門したこともあるが、自分には音感、リズム感がないことに気づいた。師匠からも、苦手な分野もなんとかものにする努力は必要だと言われているので、芝居噺も本格的に始めるつもりだ。
私の落語の理想形は、古今亭志ん朝師匠。江戸落語を聴いていた時に、あのため息が出るような語り口に魅了された。少しでも志ん朝師匠の領域に近づきたいと考えている。
(4/10 神戸新開地の喜楽館にて)
この日は、4/7からの「喜楽館AWARD2024 ファイナリストウィーク『林家染吉の巻』」の1週間の中日にお話を聞きました。トリを務めた昼席は、『箒屋娘』という珍しい演目でした。桂文我師匠に稽古をつけていただいたそうです。染吉さんには一つ一つの質問に本当に丁寧に答えていただきました。
この1週間はすべてトリを務めて、出演者も基本は自分で決めることができるそうです。そのため前に登場する落語家のマクラで何度か染吉さんの話が出ました。
「若い頃、出演料の封筒の中身が入っていないことが何度かあったので、染吉さんは封筒を手の平に置くだけで、いくら入っているかが分かるようになっている」との先輩の盛った話や、名古屋から来た女性講談師が染吉さんの好男子ぶりを披露したりで、先輩や仲間から愛されていることが伝わってきました。インタビューでも人柄の良さを再確認しました。
40代半ばの今からが染吉さんの大きな飛躍のチャンスでしょう。お客さんを大事にしながら、落語の力量を磨いて大きくなってほしいと思います。
「期待してまっせ―!」
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。