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2025/05/19

第二十六回 導かれて襲名披露まで <​桂 米之助インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第二十六回は​桂 米之助さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!

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導かれて襲名披露まで
(​​桂 米之助インタビュー)

 

芸名 ​​桂 米之助(かつら よねのすけ)
本名 ​大倉 正裕
生年月日 ​1978年(昭和53)年9月29日
出身地 京都市
入門年月日 ​2001年(平成13年)10月 師匠「桂 ざこば」
公式サイト https://yonenosukekatsura.com/

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ざこば師匠の落語に惹かれる

京都の洛北高校1年生の時に、朝日放送『ざこば・鶴瓶らくごのご』の公開収録に行こうと友達から誘われた。落語には全く興味がなかったので断ったが、前回のゲストが内田有紀だと聞いて参加することにした。

その日のゲストは下条アトムさん。ふてくされていたら、ざこば師匠と鶴瓶師匠が登場して三題噺(即興落語)を始めた。友人の出した「使い捨てカイロ」というお題も取り上げられて腹を抱えて笑った。「日本にこんな芸能があったんや」という衝撃を受けた。

その後は、ざこば師匠が出演される落語会や米朝一門会に足を運んだ。ざこば師匠は、魂を揺さぶる落語を演じて若い世代にも大いにウケていた。影響を受けて、高2の文化祭で大喜利や小噺をやった記憶がある。

「桂米朝上方落語ワークショップ」

通った阪南大学には、落語研究会があったが、当時は漫才やコントばかりをやっていて、実態はお笑いサークルだった。大学1回生の時に、ゆずがストリートミュージシャンからデビューした。そこでバイトの休みの日に友達と天王寺で路上ライブを始めた。無名だったコブクロも隣で歌っていた。何回か彼らと喋っているが、歌は格段に上手く、プロ意識も高かった。もう才能が違うと思った。

3回生になって、バイト先のカラオケボックスの待合室にあった産経新聞を読んでいた。そこに大阪市主催の「桂米朝上方落語ワークショップ」という広告が目に入った。コブクロに打ち砕かれて歌をやめた直後だった。落語が好きだったことを思い出して、その新聞をビリビリ破って家に持ち帰って申し込んだ。

何百人の応募者の中からオーディションで10人に絞られる。審査員の桂吉朝師匠に「30秒で好きなネタやってください」と言われたが、「いや、僕、何にもできないんですけど」とボロボロのジーンズに茶髪の格好で答えた。他の人は着物で落語を演じていたので、「これはもう就職活動や」と思っていたらポストに合格通知が入っていて驚いた。

ざこば師匠に弟子入り志願

後に、吉朝師匠に「なぜ僕は通ったのですか?」と聞くと、「真っ白で何色にでも染まるスペースがあったので、見た瞬間に合格だった」と言われた。ワークショップでは、吉朝師匠から『酒の粕』(さけのかす)というネタを丁寧につけていただいた。

旭区民センターでの発表会では、受講生の前に出演された桂米朝師匠が、「大学生の大倉君は、実際の酒の粕を見たことも食ったこともないそうで、、、」とマクラを振ってくれた。

米朝師匠のマクラが効いているので、『酒の粕』はもうバッカンバッカンウケた。気持ちがいいというか、すごい世界やと思って、落語家になろうと決めた。落語の入口だったざこば師匠の顔が頭に浮かんだ。

箕面のメープルホールの楽屋で、ざこば師匠に弟子入り志願をした。師匠は「俺の噺は何を知ってんねん?」と聞かれて、高校の時から聴いていた噺を答えると、「おーそうか。俺は、お前のこと知らん。お前もテレビや舞台でしか俺のこと知らんやろ。明日からついて来なさい」と言われて、次の日にはテレビ局に付いて行った。そこから見習い期間になった。5ヶ月後に正式に入門して「ちょうば」をいただいた。2001年10月、23歳の時だった。自分の意思というより何かに導かれていったという感じだった。

「ありがとう!勉強できたわ」

入門当時、師匠はものすごく忙しくて、レギュラーを7、8本抱えているうえに、お芝居にも力を入れていた。大阪松竹座で『風まかせ 弥次喜多道中浪花双六』という、サイコロを転がしながら進めていく芝居があった。私が師匠に小道具のサイコロを渡すのを忘れた。舞台ではサイコロがなくて段取りがうまく進んでいなかった。

先輩からは激しく怒られて、師匠が舞台から降りてくるのを土下座の態勢で待っていた。師匠は、周囲の雰囲気を感じ取って、「ありがとう!芝居の新たな進め方も勉強できたわ」と私を抱きかかえてくれた。当時は忙しくて一杯一杯だったので、師匠から激しく叱責されたら私は間違いなく辞めていた。その後には、共演していた桂南光師匠が「破門にするかどうかは、サイコロで決めよう!」とオチまでつけていただいた。

年季が明けてからは、先輩方に助けられて前座の仕事も多くいただいた。師匠のおかげで、ラジオのレギュラーもあった。2009年には大阪市の『咲くやこの花賞』をいただいた。

米之助襲名と今後

13年前から大阪市天王寺区の一心寺で落語会を続けていた。その会の2人の世話人は、3代目桂米之助師匠に高校時代に落語を習っていた。彼らに米之助師匠のお墓参りに誘われたことがきっかけで、ご家族の方とご縁ができた。その後、「米之助を継いでもらえませんか?」という話をいただいた。「そんな大きな名前は継げません」とお断りした経緯があった。

師匠ざこばから襲名の話が持ちかけられ、「継ぎたい名前はないか?」と聞かれたときに、この話をすると、師匠は、「ご家族も望んでおられるなら、それが一番いい」ということで、三代目米之助夫人(97)とご家族の方にも報告して米之助の襲名が決まった。

これからの落語家としての目標は、大ネタの『百年目』を、米朝師匠のように自分のモノにしたい。単に噺をするだけでなく、旦那、番頭、丁稚の各登場人物を見事に演じきれるような人間力と落語の力量を磨いていきたい。

またレクリエーション介護士2級の資格を取得して、落語とレクリエーションを掛け合わせた「落語レクリエーション」を開発して高齢者施設を廻っている。

ある日、車椅子に乗ったおじいさんが、私の落語に反応して拍手をしたり、質問に間違えると手を合わせて「すまんすまん」と謝ってくれた。それを見て周りのスタッフが「おー」、「きゃー」と反応していた。

後でスタッフの人に聞くと、このおじいさんは誰が声がけをしても今まで何の反応もなかったそうだ。「おじいさんへの対応を疎かにしていたことに気づきました」と感謝してもらった。落語を通して入居者やサポートしている人の喜んでいる顔を見るのが嬉しい。

米之助を襲名したばかりで、正直言って実感はまだないが、名前に恥じぬよう落語家として一歩一歩進んでいきたい。
(3/31 神戸新開地の喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

喜楽館での「力造、米之助、惣兵衛三人同時襲名披露公演」ウィークの初日にお話をうかがいました。私の一つ一つの質問に米之助さんは真摯に応えてくれました。

お話を聞いていて、「自身の意思よりも、ご縁というか、何か導かれていた気がします」といった趣旨の発言が何度かありました。

たまたま産経新聞を読んで米朝師匠のワークショップを知ったこと、普段はスポーツ新聞しか読まないのに、なぜ産経新聞を手にしたのか分からない。吉朝師匠が、全く落語ができない自分を合格にしてくれたこと、米朝師匠がマクラを振ってくれたおかげで『酒の粕』が大ウケしたこと、米之助襲名の際の経緯など、ご本人も不思議そうでした。

私も初めは偶然が重なっていると思ったのですが、話を聞いているうちに、米之助さんの気持ちのありようや言動が、それらを呼び込んでいるのではないかという気がしてきました。松竹座の芝居を終えた後のざこば師匠の発言も、米之助さんの人柄が引き出しているかもしれないとさえ感じてきたのです。また個人的には、落語レクリエーションの活動は、大きな需要があり、求めている人は多いと思います。

『神戸新開地・喜楽館AWARD2024』での米之助さんの優勝は神戸のお客さんに応援していただいている証でしょう。ぜひ神戸から絶対的な人気者になって、米之助の名前を大きなものにしていってください。
「期待してまっせ―!」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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