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トップページ > ニュース >  私が落語家になったワケ   >  第二十五回 周囲の空気や人の気を読む <​桂 三若インタビュー>

2025/05/05

第二十五回 周囲の空気や人の気を読む <​桂 三若インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第二十五回は​桂 三若さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!

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周囲の空気や人の気を読む
(​桂 三若インタビュー)

 

芸名 ​桂三若(かつら さんじゃく)
本名 ​畑山 昌利
生年月日 1970年(昭和45)年3月5日
出身地 神戸市
入門年月日 1994年(平成6年)4月1日 師匠「六代 桂文枝」
公式X @sanjaku3katsura

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大学1回生で落語に出会う

落語に初めて出会ったのは、神戸学院大学の新入生歓迎の時。落語研究会の先輩が、中庭で『道具屋』を披露してくれた。これがほんとに面白くてね。友人を笑かすのは好きだったが、今までの自分にはない笑いだと魅力を感じた。

中学、高校時代は、特にお笑いが好きだったというわけでもなかった。「ひょうきん族」とかが流行っていたが、父母が厳しくてテレビを見せてくれなかった。友達と外で遊んでばかりの生活だった。

4回生でプロを意識

大学時代はアルバイト中心で、授業には出席しなかったが、落語研究会の部室には毎日出入りしていた。落語は自分に合っているという感じはあった。マクラでどんな話をしようか、古典落語をどのように演じようかといろいろ考えていた。

文化祭や学内外の寄席のほか、地域の敬老会なども含めて年間20~30回程度は高座にあがった。もちろんウケたり、ウケなかったりだが、自分でやるのが楽しかった。

4回生になった頃から一生やりたいなと漠然と思い始めた。落語家を目指した先輩が、結局諦めたのをまじかに見て、自分は絶対にプロになりたいと思った。

ただ、単位が足りなかったので、大学は5年通った。通常は1回生で履修する体育の授業に5回生の時に出席していた(笑)。また購入した六法全書もまっさらのままだった。

桂三枝師匠(「六代桂文枝」)に出会う

5回生では弟子入りも考え始めた。うちの落研は、当時は桂米朝師匠一色で、書籍やカセットテープが部室に置いてあった。僕も米朝師匠の落語を聴いて。プロの話芸のすごさを知ったので、色々なプロの方の寄席や落語会を見て廻った。

当時の桂三枝師匠が、旧の近鉄アート館での一門会に登場した時に、めっちゃくちゃかっこよかった。もちろんテレビの「パンチDEデート」などで、師匠のことは知っていたが、演じる落語の魅力に惹き込まれた。

たまたまバイト先のピアノバーの演奏者が、三枝師匠のバックでピアノを弾いていた。当時、師匠は地方公演やディナーショーなどで歌うときもあった。

「ひょっとしてこれは運命じゃないか」と、彼に相談した。当初は迷っていたが、情熱が伝わったのか、師匠に紹介してくれることになった。

弟子入りはスムース

その日は、三枝師匠の歌の練習をずっと見ていて、終わった後に呼ばれた。落研だと言うと、「どんなネタをやっている?」と聞いて、僕の話す内容を師匠はメモしていた。話も弾んだので、稽古をつける時の参考にするのかと思っていたら、そのメモを置いて帰られた(笑)。

その時に、「両親を連れてきなさい」となった。私は就職活動もしていなかったので、親はフリーターになるものだと思っていた。卒業する年の3月に、師匠と両親と一緒にホテルで話をして、すんなりと弟子入りの運びとなった。本当にスムースだった。たまたま弟子がいなくてタイミングが良かったのかもしれない。入門は、1994年4月、24歳の時だった。

3年間で休んだのは2日

当時、僕は川西市に住んでいたので、池田市の師匠の自宅に毎日通うことになった。すぐに車の運転もしたので、放送局や会場までの道も覚えなければならない。テレビ・ラジオ出演、独演会、講演会の各々に応じた衣装の準備や諸々の手配も必要で、台本の読み合わせも手伝った。

師匠が夜に会食に行くときには、横に座っていることも多かった。僕がいるとイジリやすいので座をもたせやすかったのだろう。師匠はショートスリーパーで、夜中の1時に家に帰って、翌日は6時に師匠の自宅にお迎えの日もあった。3時間程度の睡眠が続いたこともある。3年間の弟子期間に休んだのは2日だけだった。師匠にはよく怒られたが、割とフランクに接してくれたので辞めたいと思うことはなかった。

周囲の空気や人の気を読む

入門して1ヶ月みっちり稽古して、池田市の一門会で、師匠の創作落語『お忘れ物承り所』を披露してものすごくウケた。今でもアレを超えていないかもしれない(笑)。師匠は忙しいので、楽屋での合間の時間や、車に同乗した時に落語を見てもらった。

師匠が出演するテレビ番組の前説を担当したり、師匠の創作落語の会の前座を務めることもあった。入門して3年目からは、テレビ番組『ナイトインナイト』にもアシスタント的ではあるが、レギュラー出演ももらった。

弟子の期間で一番学べたのは、周囲の空気や人の気を読むことだろう。弟子の仕事は厳しくて細かいが、それを通じて、師匠や周囲の人たちが気持ちよく仕事ができる状況を作ることが求められていた。

落語会開催のために動く

3年の修行期間中には、落語でもかなりの場数を踏ませてもらった。ただ、落語会は三枝一門内で完結することが多いので、一門以外の落語家とのつながりは多くなかった。当時は、繁昌亭も喜楽館もないので、年季が明けてからは、自分の落語会をとにかく作ろうと積極的に動いた。地元の神戸や明石で落語会を開催したり、喫茶店やバーなどにお願いに行って落語ができる場を確保した。もちろん先輩方にもお世話になった。本日の昼席に出演された露の団六師匠にも前座に呼んでもらって高座の作り方なども教わった。当時の明石での会は今でも続いている。

そういう活動が実ったのか、2001年に『なにわ芸術祭』新人賞、『NHK新人演芸大賞』を受賞することができた。

入門して30年

早いもので、入門して30年を越えた。2007年には、「桂三若全国落語武者修行ツアー」と称して、「20人以上集めてくれたら、どこでも落語やります」ということで、47都道府県で471回の落語会を開催。この頃からタレント的な仕事は控えて、落語中心の活動になった。

また、2011年から2014年までは、吉本興業の地域活性化プロジェクトの「住みます芸人」として、秋田県で生活した。

これからもコツコツと楽しく落語を演じて、来ていただけるお客さんを増やしていきたおい。現在は、個人の落語会では3席演じることが多いが、1本は新作落語をやっている。師匠には、300もの創作落語があるので、それを伝えていくことも弟子としての役目だと思っている。 また、私にとって地元である神戸の喜楽館をもっともっと盛り上げていくことに貢献したいと考えている。
(3/6 神戸新開地喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

軽妙な喋り口で、時折ギャグを織り交ぜながらテンポよく話していただきました。

自身の落語会を開拓していろいろな場所で演じ、「桂三若全国落語武者修行ツアー」で全国を廻り、秋田県での「住みます芸人」になるなど、何かチャンスがあれば、とにかく自分で切り開いていくバイタリティを感じました。

この日の喜楽館昼席では、六代桂文枝師匠の創作落語の代表作『宿題』で大いに会場を沸かしてくれました。軽快な噺の運びに引き込まれました。このようにして師匠の創作落語をつないでいくのでしょう。

今年2月、3月の喜楽館夜席での三若さんの独演会はいずれも満席完売でした。今までの活動が地元でも実っています。

今後も益々活躍されて、地元喜楽館の発展にもさらに力をお貸しください。
「期待してまっせ―!」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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