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2025/04/21

第二十四回 米朝師匠に導かれる <桂 八十八インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第二十四回は桂 八十八さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!

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米朝師匠に導かれる
(桂 八十八インタビュー)

 

芸名 桂 八十八(かつら やそはち)
本名 ​谷本 隆
生年月日 1964年(昭和39)年1月4日
出身地 兵庫県尼崎市
入門年月日 1988年(昭和63年)10月 師匠「桂米朝」

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小学生から落語に親しむ

昔から関西ではテレビの演芸番組がたくさんあった。寄席中継や吉本新喜劇、松竹新喜劇が好きで、土曜日は学校から飛んで帰ってきて、日曜日もお笑い番組を観ている子ども時代だった。

祖母や母親に梅田花月などの劇場にもよく連れて行ってもらった。出し物は、漫才や新喜劇が中心だったが、私は落語が一番性に合っていた。小学3年生の頃から学校で催し物があると、机の上に座布団をひいて、『寿限無』や仕草で笑わす『四人癖』を披露していた。中学生になると、1人で吉本や松竹の劇場に通った。

「新春吉例桂米朝独演会」の垂れ幕

親が料理の仕事をしていたので、中学を卒業して板前修業に入った。プロの落語家に憧れはあったが、なろうという気持ちは固まっていなかった。まだまだ子どもだった。

桜橋交差点にあった「幸鶴」というフグ料理屋に修業に行っていた。道路を隔てたサンケイホールで、米朝師匠は夏と正月に独演会をされていて、「新春吉例桂米朝独演会」という垂れ幕を毎回見ていた。給料をもらうと、近くのレコード店で、米朝師匠の落語全集のカセットを「今月はこれとこれ」といって揃えていくのが楽しみだった。

「噺家なんかやめときなさい」

18歳の時に米朝師匠の芸に衝撃を受けた。独演会で師匠が高座にあがると、なにか上品な墨の香りがするたたずまいを感じた。

「この人の弟子になりたい」と、独演会や一門会のチケットを買って、楽屋にうかがい何度も弟子入り志願を繰り返した。「いやいや、もうあんたな、そんな料理人のエエ腕もってんねんから、噺家なんかやめときなさい」と断られ続けた。

開演前に楽屋にお邪魔することもあった。満席で入れないときは、「ほな、袖で見て帰んなさい」と言ってくれたこともある。でも弟子には取ってくれない。親も落語家になるのは反対だったので、1年通ったところで諦めた。ただその後も、落語は好きで、プライベートでは自分で演じることもあった。

「とうとう親御さんを連れてきたか」

数年後、母親が「やはり落語家になりたいんか?」と聞いてきた。翌日は仕事中ずっと考えた。その晩に「やっぱりやりたい」と母親に答えて、再び米朝師匠のところに通い出した。「あんた、また来たんかいな」と師匠は憶えてくれていたが、やはり断られ続けた。

そのうち母親が、「このままやったらラチあけへんがな。私も行く」と言い出した。いい大人の24歳が、とも思ったが、大津市民会館の一門会にうかがった。「とうとう親御さんを連れてきたか」と、近くにいた桂枝雀師匠と桂ざこば師匠に「この子やけどな、弟子に取れへんかい?」と聞いてくれた。二人とも「今は、ちょっと弟子がいて、、、」という反応だった。「ほな、しゃあないか。いっぺんうちへ来なさい」と言っていただいた。

「ものにならなかったら諦めてもらう」

数日後、米朝師匠の自宅に伺うと、稽古場に座布団2枚をぽんと置いて、「なんでもいいさかいな、いっぺんやってみなさい」。『不精猫』をやりかけたら、「不精もんだから、上下(かみしも)をきっちり振らないで、軽くこれぐらいでやるんや」と教えてくれた。「ちょっと小噺を教えたるさかいな」と稽古みたいなこともしてくれた。

「1年様子を見て、ものにならなかったらはっきり言うさかい、その時は諦めてもらう」と言われた。当時の24歳は落語家になるには遅かったので、成長してやっていけるかどうか思案されていたのかもしれない。そこから師匠宅に住み込みの弟子になった。もちろん非常に嬉しかったが、特に一年間は、「諦めてくれるか」という言葉がでないかとドキドキしていた。弟子入りは1988年、米朝師匠が63歳の時だった。

「もういっぺんやるさかいよう見とけ」

弟子になって、まずは朝起きて、掃除をして、洗濯などの家の用事。料理は奥さんがされるが、お正月などの多くの人が集まる時は、板前の経験があるので食事の下ごしらえを担当した。師匠の鞄持ちで仕事についていくこともあった。

弟子の3年間は、三遍稽古といって、1対1でのオウム返しの稽古。なにしろ憧れの米朝師匠が目の前でお稽古をつけてくれるので、「緊張ってなもんやない」。師匠は、お稽古の時は厳しくて、すごく怒られる。「違う違う。わしがそんなこと言うたか」、「やめた方がええな」、「もういっぺんやるさかいよう見とけ」と言われると、こちらも緊張しているので、同じところでつっかえたり間違える。初めの頃はそんなことが多かった。

でもお稽古が終われば、何事もなかったかのように、「ちょっと飲もうか」と接してくれる。辞めたいとか、逃げ出したいとかいうことは一切なかった。

「こんな話は聞かれへんで。どんだけ勉強になるか」

師匠がお酒を飲むときには、よくお相手をさせてもらった。芸の話も昔の芸人さんの逸話も何でもしゃべってくれた。たとえば「講談の面白さっちゅうのはな」と言って、さわりのいいところを目の前でやってくれたこともあった。舞台ではなく、目の前で見ることができる。あんな贅沢な時間はなかった。 

枝雀師匠やざこば師匠も家によく来て、近くで話を聴くことができた。また小松左京先生が来られることもあって、師匠が小さい頃に住んでいた中国の話や、歴史や科学の話、芸論やもっと砕けた話を、ああでもないこうでもないと二人で話し合うこともあった。

私らが台所で用事をしていると、師匠がトイレに立った時に、「こんな話は聞かれへんで、どんだけ勉強になるか。横で聞いとき」と怒られたこともあった。

師匠に教えてもらった通りに伝える

米朝師匠の内弟子は10月末の3年が満期だったが、年の暮れから正月にかけては忙しくなる時期なので、「すまんけど、もうちょっとおってくれるか」と言われた。そのままずるずると2年いて、結果的に5年間師匠の家でお世話になった。

以前、ざこば師匠が、「一門の弟子が全員揃っても、米朝師匠みたいなことはできへん。弟子が得意分野を分け分けしてなんとかしていこう」と話されたことがあった。

私の場合は、今は誰もあまりやらない珍しい噺とか、『市川堤』といった怪談話なども演じて、師匠から受け継いだ噺をつないでいくつもりだ。また、米朝師匠につけてもらったネタも自分でどこか変えて演じている。ただ若いお弟子さんがお稽古に来てくれた時には、米朝師匠に教えてもらった通りに伝えている。
(2/6 神戸新開地の喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

この日の喜楽館昼席では、桂八十八師匠がマクラで米朝師匠の口ぶりをまねて話すと客席が沸きました。米朝師匠は没後10年ですが、「まだお客さんが覚えていてくれるのが嬉しい」と八十八師匠は語っていました。

インタビューでは、八十八師匠がご自身のことを語ってくれたのですが、米朝師匠とのやり取りは、すべて米朝師匠の声色で喋ってくれるので、まるで「私が落語家になったワケ」という落語を聴いている気分になりました。高座ではなく、目の前で独り占めできたので、豊かな時間を過ごすことができました。途中から八十八師匠の語りに聴き入っていました。

余談になりますが、小松左京さんのお話が出たのが驚きでした。私の10代は、小松左京さんにズット憧れていたからです。高校の先輩で、博覧強記であるにも関わらず、ユーモアがあって周囲を楽しませる人間的魅力に惹かれていたのです。テレビ番組で、米朝師匠と二人で丁々発止のやり取りをされていたことを思い出しました。なぜか涙が出そうになりました。

八十八師匠には、これからの60代もますますご活躍されることをお祈りしています。
「期待してまっせ―!」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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