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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第二十一回は桂 あやめさんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!
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運転免許を取得して入門?
(桂 あやめのインタビュー)
本名 入谷 ゆか
生年月日 1964年(昭和39)年2月1日
出身地 神戸市
入門年月日 1982年(昭和57年)6月 師匠「入門時 桂小文枝(五代目 桂文枝)」
公式サイト https://www.katsura-ayame.com/
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私が中学2年生の時に、神戸文化ホールで学校の落語鑑賞会がありました。メンバーは、笑福亭松鶴師匠、林家小染さん、笑福亭松葉さんの3人。落語との最初の出会いでした。その時は、第一印象として「面白かった」という程度の受け止めでした。
その後、高校1年生の1980年から漫才ブームがやってきました。「うめだ花月」などの演芸場に行き、追っかけのファンの子とも仲良くなりました。
プログラムは漫才が中心ですが、漫才師は忙しくて、「今も東京に行ってきてどうのこうの」っていうネタが多かった。一方で、落語家はすごくマイペースで、もっと噺を聴きたい気持ちになりました。
当時、神戸では演芸プロデューサーの楠本喬章さんがいくつもの落語会を手がけていました。東灘文化センターの『笑民寄席』や凮月堂のもとまち寄席『恋雅亭』にも通いました。後に聞いた話ですが、私が初めて落語に触れた神戸文化ホールの寄席も、楠本さんが手がけた1回目の学校寄席だったそうです。
地域の独演会や勉強会を廻ってみても、やはり面白い。もっと聴きたいと遠くまで足を延ばすようになりました。そこで大学の落語研究会の人たちに出会い、彼らからカセットテープを借りて落語を覚えました。
学校生活とは全く異なる落語の世界にはまりました。高校には行かなくなって、昼間はバイトをして、夜や休日に落語会に足を運ぶ生活になりました。マンモス女子校の全員一律的な雰囲気になじめず、高1で中退しました。
その頃に、西川きよしさんが司会をしていた素人名人会の飛び入りコーナーで、「はい、はい」って手を挙げて落語をやりました。多くの観客の前に出たら、頭の中が空っぽになってうまく喋れませんでした。それでも「根性あるわ」ということで敢闘賞をいただきました。当時の桂小文枝師匠(五代目桂文枝)が審査員で、初めての出会いでした。
落語会に通っているうちに、「人前で噺をして聴いてもらえるなんて、なんと面白い仕事や」とプロになることを考え始めました。しかし周囲の落研の先輩たちは、「女の子は無理やで」の一点張り。「女がやるような噺はないねん」とか、「女がやったら笑いにくい」という反応ばかりでした。「いやいや、そんなんやってみなわからへん」と反論しました。
小文枝師匠が舞台に出てきた瞬間に、会場の照明がちょっと明るくなったような華やかさに惹かれて、「弟子入り志願するのだったら師匠のところへ行こう」と考えていました。でもなかなか会える機会はありませんでした。
ある日、師匠は京都花月に出演して、夜に蛸薬師での桂文太兄さんの勉強会に出る予定でした。私もその勉強会に行くつもりで新京極あたりをブラブラしていると、偶然、師匠が前から歩いてきて、「おー、また見に来てくれたんかいな」と声をかけてくれました。ファンとして顔は覚えていただいていました。
立ち話で、師匠は「家に車はあるけど、運転免許を持っている弟子はおらんからな」と話していました。「私18歳になったので、免許を取ってくれば弟子にしてくれますか?」と聞くと、「ハッハッハッ、このワシの運転手をするんか」と笑っていました。
島根県の自動車学校の免許合宿に参加して3週間ほどで免許を取得。なんば花月の楽屋口で、「運転免許取ってきましたので、弟子にしてください」と言うと、「えー。本気で言ったんちゃうのに」と師匠は戸惑っていました。
「お茶でも行こうか」と近くの喫茶店でお話をさせていただきました。今まで女性の落語家でうまくいった人がいないので、どう対応したらよいか分からない感じだったと思います。それでも「いっぺん来てみるか」と翌日から弟子入りになりました。
いきなりハンドルを握って、師匠の家から千里の毎日放送まで走りました。島根県の山の中で免許を取って、すぐに阪神高速ですから周囲は不安そうでした。実は私が一番怖かったのです。1982年の18歳の時です。
弟子になって、神戸から師匠の家まで毎日通いました。楽屋で着物をたたんだり、師匠が出演する会場まで運転をしたり、カバン持ちでついたり、とすべて現場で学びました。
着物も楽屋の端で、さっさと着替えますが、先輩たちは気を使って黙って部屋から出ていきました。私は女性だからといって困ることはなく、入門後に辞めたいと思ったことは一度もありません。むしろ師匠は娘さんもいないので、弟子としての扱いにとまどっていたのかもしれません。
師匠から稽古をつけてもらって高座に上がると、マクラではウケるのに、ネタに入ると、お客さんが引いてしまう。落語の登場人物は男か女かと感じて、お客さんが落ち着かないのです。一時は、化粧を落として男っぽい格好をしたり、落語の登場人物の男と女を入れ替えたりもしましたが、うまくいきませんでした。
そこで、女子大生が3人、学校帰りに喫茶店で喋っている「艶姿ナニワ娘」という創作落語を作りました。見た目と登場人物に違和感がないので、お客さんが普通に笑ってくれました。何度か見に来てくれた女のお客さんが、「今日は初めて肩の力を抜いて聴きました」と言ってくれました。
その後、入門5年目の1987年、『第8回ABC漫才落語新人コンクール』で最優秀新人賞をいただきました。この時は、化粧品売り場の女性を描いた「セールスウーマン」という創作落語で受賞しました。
12/29 喜楽館昼席での姉様キングスの舞台
女性落語家の先達がいなかったこともあって、自分のオリジナルでやってきた面が強かったかもしれません。五代目桂文枝師匠は、弟子の集まりの際に「何もみんなワシの真似なんかせんでええねやで。自分しかできないもの、その人らしいものをやるのがええねや」と言っていました。
弟子入りの際に、「この人しかいない」と思ったのは、動物的な勘というか、細胞が呼んだのでしょうが、自分の持ち味を活かせそうだと感じていたのかもしれません。
もちろん、各師匠方や先輩、落語家仲間にも助けられながらやってきました。
今後も一歩一歩進んでいくつもりですが、自分が前に出るだけでなく、自らの創作落語を後輩に演じてもらうとか、イベントなどをプロデュースする力を高めて落語家仲間に還元できる取り組みをさらに進めていきたい。
この新開地にある喜楽館は私の地元でもあるので、たくさんのお客さんに来てもらうように頑張っていきたいと思っています。
(12/29 神戸新開地の喜楽館にて)
この日の喜楽館の昼席では、林家染雀さんと結成した音曲漫才ユニット「姉様キングス」で大いに客席を沸かせてくれました。インタビューでは、興味ある話が満載で、泣く泣く省略した部分があるのが残念でした。
一番印象に残ったのは、若い頃に東京の寄席で落語を始めると、一番前列のオジサンが新聞を広げて読みだしたことがあったそうです。女性の落語は聴きたくないという姿勢だったのでしょう。
今は、女性の落語家が増えて、舞台上でそれぞれが異なる個性を発揮しているので、お客さんに違和感がなくなっています。先日2/14の喜楽館昼席での「バレンタイン女流ウィーク」を観ても、いつも以上に笑って楽しむことができました。陽気な舞台が続きました。かつては固定観念にとらわれていたのでしょう。
男女雇用機会均等法が新たに施行されたときに、私は採用の仕事をしていました。女性の総合職は優秀だったのに、組織の受け入れ体制が十分でないために力量を発揮できなかった事例を思い出しました。今はかなり改善されました。新たなことが定着するには一定の時間がかかります。それでも着実に前に進めることが大切なのでしょう。
今回は、通った中学校の尊敬する後輩の話を聞くことができました。ぜひ地元の喜楽館の発展にも力をお貸しください。
「期待してまっせ―!」
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。