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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第二十二回は笑福亭 鉄瓶さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!
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「鶴瓶噺」に魅了される
(笑福亭 鉄瓶のインタビュー)
本名 天野 幸多郎
生年月日 1978年(昭和53)年8月14日
出身地 奈良県香芝市
入門年月日 2001年(平成13年)2月11日 師匠「笑福亭 鶴瓶」
公式X @teppei12banme
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小学生、中学生の時からずっと目立ちたがり屋だった。大阪でいう「イチビリ」で、高校でも文化祭で漫才や漫談を披露していた。テレビのバラエティ番組が好きだったが、特に読売テレビの「鶴瓶上岡パペポTV」に強く惹かれた。身近なことを本当に楽しそうに喋る鶴瓶師匠の語りが魅力だった。音声をテープに録音して、ずっとウォークマンで聴いていた。自分なりに工夫して友達に話してみたりしていた。僕の中では高校生の時からすでに「鶴瓶噺」の稽古が始まっていた。落語は視野にはなく、鉄瓶という名前をもらうまでは落語を聴いたことはなかった。
鶴瓶師匠に弟子入りするにしても、大阪の放送局はすべて収録番組なので直接会えるチャンスはない。でも師匠の自宅に行くのは違うだろう。毎週木曜日は、テレビ番組「笑っていいとも!」でアルタには必ず来るはずだ。
高校を卒業してJR大阪駅の中央郵便局で夜間のバイトをして2年間で70万円貯めた。上京して、求人雑誌の「フロム・エー」を見て、赤坂見附のファミレスで働き始めた。
毎週木曜日はアルタ前で、「弟子にしてください!」と何度も何度も師匠にお願いしたが断られ続けた。それ以外は、バイトをしながら東京でよく遊んだ。
1年半通ったある日、師匠にアルタ横の路地に連れていかれて、「お前な、もう1年以上来てるやろ。でもな、もうほんまに弟子は取らへんから」と言われた。
ショックで翌週はアルタには行かなかった。ところが次週に「鶴瓶ファン感謝デー」というイベントがあった。せめてもの思い出作りのために参加した。朝9時半のアルタ前には、本気のファンが100人は来ていた。
僕はスタッフの人に「1年半、弟子入り志願をしていたが取ってもらえそうにないので何とか入らせてください」と言うと、「一緒にテレビに映っていいよ」と、鶴瓶師匠の真後ろに立たせてくれた。師匠の後ろ姿を見ていると、やっぱり諦められないと思い直し、再び通い出した。
2年ほど経った頃に「お前ひつこいな。ちょっと名前と電話番号を書いとけ」と師匠は東京在住の兄弟子に指示をした。その夜に直接電話がかかってきて、半蔵門でお茶を飲みながら話す機会をいただいた。「弟子になれば、西宮にアパートを借りて毎日俺の家に来ることになる。何もおもろいことはないで」と言われた。もちろん私には何の異論もなかった。
2001年1月に、母親と一緒に師匠の家で話をして、とりあえず1ヶ月間様子を見るということになった。母親は私が上京した時から芸人になることに反対していたが、師匠の前に出ると、ミーハーのファンに切り替わっていた。翌月の2月11日の朝ごはんの時に、「ほな、今日から正式に取ったるわ」ということになった。
師匠が東京で泊まりの日も、毎朝、掃除や家の用事をして、帰りなさいって言われるまで、師匠の自宅で過ごしていた。修行中に、「お前は落語をするのか」と聞かれたが、「いえ、する気ないです」と答えていた。
デビューは師匠が出演する番組の前説だった。松竹芸能の養成所のメンバーに混じってライブに参加して漫談を披露したりした。ありがたいことに、2年目から、ラジオの仕事や、テレビの生放送での食レポ、ライブの営業の仕事もあった。修業中は、朝に師匠の家に行って、朝ごはんの用意の後で、「すいません、出させていただきます」と言って仕事に行き、終わるとまた師匠の家に戻っていた。
修行が終わると、自分の時間が持てるようになる。兄弟子の落語会の手伝いに行き始めると、一門以外の落語家の噺も聴く。その時に、「おもろいなぁ、すごいなぁ」と感じた。僕の中で座布団の上が宇宙に見えた。座っていると、猫にも、虎にも、年寄りにも、子どもにも、女にもなれるじゃないか。
弟子入りして4年目に鶴瓶師匠に「落語をやってもいいですか?」と電話を入れると、「お前は笑福亭やねんから勝手にしてください」と返事をいただいた。
雑誌『ぴあ』で調べて、あちこちの落語会に足を運んだ。先輩から落語家の基本を学んだ。当時、鶴瓶師匠はほとんど落語をやっていなかったので、他の師匠から稽古をつけてもらった。1番初めは、桂梅団治師匠から「平林(たいらばやし)」を教えていただいた。梅団治師匠が高座で楽しそうに落語をしている姿が魅力的だった。それからどっぷり落語につかる中で、10年経った2013年に第50回 なにわ芸術祭 落語部門 新人賞のほか、第71回 文化庁芸術祭 大衆芸能部門 新人賞(2016年)、第17回 繁昌亭大賞 奨励賞(2022年)をいただいた。
4年前から、自分で『ノンフィクション落語』と銘打って始めた。1作目は、小学2年生時のいじめが原因で不登校になり、義務教育を受けることができなかった西畑保さんの実話を落語にした。
「読み書きができなかった男性が64歳から奈良県の夜間中学校に通い、結婚35年目の71歳のときに妻へラブレターを書いた」というネット記事を読んで、次の日に僕は便箋を買いに行って、西畑さんの住所がわからないので、卒業した夜間中学校へ手紙を書いた。
その後、西畑さんと会って自ら取材して新作落語を創り上げた。一生懸命汗をかいて生きている人に、少しでもスポットライトを当てたいという気持ちだった。当時の自分自身にも重ね合わせていたのかもしれない。
実は、西畑さんの記事を読んで、彼の人生に興味を持った映画監督の塚本連平氏が、同時進行で映画作成に取り組んでいた。私は一人で噺を作るので早かったが、今年の3月に西畑さんを主人公にした映画『35年目のラブレター』が封切られる。驚いたのは、西畑さん役の主演が鶴瓶師匠だったことだった。私も映画に出演している。
その後、毎年一本のノンフィクション落語を創って、現在高座にかける噺は4本になった。
(1/4 神戸新開地の喜楽館にて)
鉄瓶さんの話を聴いていて、「鶴瓶上岡パペポTV」のことを思い出しました。会社員当時、毎年の人間ドックを月曜日の朝一番に受診して、お昼に読売テレビに行って整理券をもらい、夕刻に番組の収録を観るというのが、年に一度の楽しみでした。
鉄瓶さんが鶴瓶師匠の語りに惹かれて、2年もの長い間、アルタ前で弟子入り志願を続けたのは驚きです。バラエティ、落語といったお笑いのジャンルの枠を超えて、鶴瓶噺の虜(とりこ)になったのでしょう。
「ノンフィクション落語」については、昨年、喜楽館昼席での鉄瓶さんの高座でお話を聞いて興味を持ちました。私もここ20年ほど会社員の取材を通じて、縁の下の力持ちとして頑張っている人の話を聴いて心が動くことが多かったのです。これからも新たな「ノンフィクション落語」を聴けることを楽しみにしています。
「期待してまっせ―!」
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。