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トップページ > ニュース >  私が落語家になったワケ   >  第二十回 「実の親子のような師弟関係」<林家 菊丸インタビュー>

2025/02/24

第二十回 「実の親子のような師弟関係」<林家 菊丸インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第二十回は林家 菊丸さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!

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「実の親子のような師弟関係」
(林家 菊丸のインタビュー)

 

芸名 林家 菊丸(はやしや きくまる)
本名 ​池山 博一
生年月日 1974年(昭和49)年7月16日
出身地 三重県
入門年月日 ​1994年(平成6年)7月 師匠「林家 染丸」
公式X @kikumaru3rd

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落語との出会いは、小学5年生

東海ラジオの「なごやか寄席」という公開収録番組を小学5年生の時に聴いたのが、落語に興味を持ったきっかけだった。ネタの内容をすべて理解できたわけではないが、噺とともに客席の笑い声にも興味を惹かれた。笑福亭仁鶴師匠の『初天神』の盛り上がりがすごかった。祖母は「昔ものすごく売れとった芸人さんや」と教えてくれた。

当時は、ラジカセでテープに 録音して、家の扇子をもって座布団の上で落語の真似事を繰り返した。法事などで披露すると、大人たちは大変喜んでくれた。

高校3年生での進路相談

中学生以降も引き続き「なごやか寄席」を聴いていた。プロの落語家を意識したのは、三重県立川越高校3年生の時。今後の進路を考えたからだ。その頃に会ってみたかったのが林家染丸師匠。ラジオから聞こえてくる声や雰囲気、ちょっと艶っぽい感じが好きだった。特に、『稽古屋』や『悋気の独楽』に登場する女性を描く噺に魅了された。

当時は、行きたい大学や学びたい学部があるわけでもなく、働きたい職種もなかったので、担任の先生に、「大阪に行って、林家染丸師匠に弟子入りしたい」と言うと、冗談と受け止めてまともに話を聞いてくれなかった。染丸師匠のことも知らなかった。

高校は進学校だったので、先生からは「大阪の大学に入学してから考えてみろ」とアドバイスを受けた。しばらくすれば落語の熱も冷めると思われていたのだろう。

受験の日に師匠に会いに行く

三重から大阪に大学受験に行った日の帰りに、NGK(なんばグランド花月)に足を運んだ。染丸師匠のナマの舞台を見たかったからだ。

師匠の出番が終わると、次の吉本新喜劇は見ないで劇場を出た。楽屋口で待っていると師匠が出てきたので、いきなり「弟子にしてください」と頭を下げた。事情を話し始めると、「ちょっと待て。大学の試験を受けたその足で弟子志願ってどういうことや」と驚かれた。今は修行中の弟子が3人いるので弟子は取れない。合格したら大学に行ったらどうだと言われた。

4月に大阪産業大学に入学して、落語研究会に席を置いた。先輩たちは学生の立場で落語に取り組んでいる。プロ志向だった私からすると全く物足りなかった。

入学して半年経った1993年9月に、これ以上大学に通っても授業料がもったいないと考えて、再び師匠に弟子入りのお願いに行った。正式に入門を許すには親の承諾が必要なので、親を連れてきなさいということになった。

母親に便箋8枚の手紙を書く

母親に話すと、弟子入りには大反対。大阪の自分の部屋から何度か電話で話しても全く埒(らち)が明かなかった。そこで初めて母親に手紙を書いた。

まずは、大学生になるまで育ててもらった感謝を述べた。両親が離婚した当時、母親と姉は家を出たが、中学1年生の私は転校したくなかったので一時期父親と家に残った。独りで過ごす夜の淋しさを癒してくれたのがラジオから聞こえてくる落語だったことや、大学を受験した日に、どうしても染丸師匠の顔 を見たくなって劇場に行ったこと、実際に師匠と喋ってみて「この人なら間違いない!弟子になりたい」と感じたことなどを8枚の便箋に書いた。

母親と一緒に師匠の家にうかがった。本来は師匠の前で、「よろしくお願いします」という挨拶の場なのに、母親は「この子にそんなことができるんでしょうか」と号泣しだした。師匠から「これから3年間は、息子さんを預かるので、しばらくは会えないことも覚悟しておいてください」という話があったので、「もう息子は手元からいなくなるんじゃないか」と母親は感じたのかもしれない。

身の回りの対応で手一杯

大学を中退して、しばらく見習いをしていた。そして上の二人が弟子修業を卒業した後の1994年7月に正式に染丸師匠に弟子入りした。朝に師匠の家に着いたら、お風呂を沸かして、米を洗ってご飯を炊く。その間にスーパーに買い物に行くという毎日。朝昼兼用の食事を 10時半頃に師匠と一緒に食べる。あとは掃除、洗濯もある。

それらの合間に稽古をつけてもらったり、師匠のかばん持ちとして出番に付いていったりした。弟子の期間に受けた稽古のネタは、4、5本で多くはない。むしろ修業が明けてからの方が稽古に通うようになった。とにかく師匠の稽古は厳しかった。2年間の修業中は師匠と自分の身の回りのことを対応することでほぼ手一杯だった。

弟子の時は、なんでこういうことが必要なのかとも思ったが、やはり場の空気を読むとか、師匠や他人の顔色に敏感になることが仕事にもつながる。たとえば、ネタを選ぶ時もその日のお客さんの様子を把握して、出演者の芸風や出番順にも配慮しないといけない。また毎日ずっと師匠についているので、プロ意識が自然と芽生えてくる。ただそういう玄人気質が、昨今の マスコミ受けでは、かえって邪魔になることがあるかもしれない。

芸歴30年を迎えて

私は古典落語でも創作落語でも、なるべく自分を消して落語の登場人物になりきることを意識している。マクラを長くふるより、演目の世界観を演じたい気持ちが強い。客席が満席の時は盛り上がりやすいが、そうでないときもお客さんに満足して帰ってもらえるように安定した力を発揮できる落語家を目指したい。最近は、地元三重県の仕事や露出も増えたので母親も喜んでいる。

あらためて30年を振り返ると、落語家という仕事に就いて本当に良かったと思っている。いろいろ悩みもあるが、生まれ変わっても落語家になりたい。ただし、子どもや身内にはさせたくない(笑)。落語がうまいからと言って、必ずしも売れるとは限らないから。

染丸師匠は、今は脳梗塞に倒れて舞台に上がっていない。正直いって師匠から具体的に何かを学ぶことはないが、もう元気に生きていてくれるだけでありがたい。

私にとっては父親のような存在なので、師匠に心配や迷惑をかけないことはもちろんのこと、落語家として成長することで師匠に恩返ししなければならないと考えている。
(11/28  神戸新開地の喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

菊丸さんは、私の質問に対して、一言一言かみしめるように丁寧に答えていただきました。その真摯な姿勢とともに、重厚な存在感に驚きました。

この日の昼席では。創作落語『貢ぐ女』で客席を沸かしていました。マクラがなく、いきなり噺に入ったのが印象的でした。

菊丸さんは、2022年には、「令和4年度(第77回)文化庁芸術祭賞(参加公演・大衆芸能部門)」を受賞しました。菊丸さんの地元の三重テレビ放送が「快挙の陰に師弟愛」というタイトルでYouTubeにアップしています。それを見ると、師匠の家で鍋をやろうとカセットコンロに火をつけた時に、一瞬だけブワッとすごい炎が出て菊丸さんの顔に炎が当たりそうになった。間一髪何事もなかったが、師匠の奥さんが、「よそから預かってる子に何かあったら大変だ」と言った時に、染丸師匠が「それは違うやろ。うちの子やから、なんかあったらあかんねや」と言い換えてくれた。あの時は本当に涙が出たと菊丸さんは語っていました。師匠も菊丸さんを本当の子どもだと思っていたのでしょう。

菊丸さんには、ますます活躍して親孝行されることを「期待してまっせ!」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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