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トップページ > ニュース >  私が落語家になったワケ   >  第十九回 「教員志望から落語家へ」<桂 治門インタビュー>

2025/02/10

第十九回 「教員志望から落語家へ」<桂 治門インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第十九回は桂 治門さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!

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「教員志望から落語家へ」
(桂 治門のインタビュー)

 

芸名 桂 治門(かつら じもん)
本名 ​藤元 惇
生年月日 1982年(昭和57年)年5月5日
出身地 兵庫県
入門年月日 ​2008年(平成20年)10月23日 師匠「桂 小春団治」
公式X @fujimoto505

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教員免許取得のために再び大学へ

子どもの頃は、テレビの漫才番組や吉本新喜劇などをよく見ていたが、劇場に行くこともなく、お笑いは生活の中の楽しみの一つだった。ただ漠然と職業として魅力があるとは感じていた。

中学・高校時代は、バスケットボールに没頭。兵庫県立伊丹西高校から桃山学院大学に進んだ。大学時代は、アルバイトをして友達とつるむ毎日。特に明確な目標もなく、バスケットボールもやっていなかった。

大学を卒業して、あまり何も考えないでフリーターになった。当時、彼女がいて高校からずっと付き合っていた。将来の結婚を考えると、やはり定職が必要ということで、教員免許を取るために、卒業して半年後に科目等履修生として再び桃山学院大学に通いだした。

思わず、弟子入り志願

教職課程後半の教育実習に行ったときに、担当の学校の先生が「話術の勉強になるから落語を聴いてみたらいい」と勧めてくれた。それが落語に出会うきっかけだった。

古典落語には独特の節もあるので、すんなり馴染めなかった感じもあった。ところが、桂小春団治師匠の創作落語『冷蔵庫哀詩(エレジー)』をCDで聴いて驚いた。冷蔵庫内のハーゲンダッツやプッチンプリン、臭い消しのキムコなどがやり取りする奇想天外な落語。わかりやすくてとても面白かった。自分でもこういう落語を作ってみたくなった。

師匠の落語をナマで聴こうと大阪の高槻での落語会に足を運んだ。ところが満席で入場できない。せっかくここまで来たのにと思って駐車場で待っていると、落語会が終了して男性が会場から出てきた。パソコンやCDの写真では見ていたが、周囲も暗かったので師匠かどうかよくわからなかった。

後ろから女性が「小春団治さん」と声をかけて花束を渡したので師匠だと確信した。こんな2人きりになれるタイミングはないだろうと、思わず「弟子にしてください」といきなり申し出た。師匠は驚いた様子で、「今は忙しいので、時間ができたら連絡するから」と携帯電話の番号を聞かれた。

彼女は落語家になるのに大反対

数日後に、師匠から連絡があって会うことができた。「やめとけ。芸人の世界は甘くないので、真面目に働いている方が良い」と師匠に諭された。それでも自分は落語家になりたいと訴えて何とかその日に弟子入りを認めてもらった。

当時は、教師になるか落語家になるかで迷ってはいなかった。一言でいえば、落語家の方が自分の性に合っていると思っていた。もちろん教師も立派な仕事だが、教育実習で「かかとを踏むな」とか「ホックを閉めろ」と生徒に注意することが必要な時もあった。私は人に厳しく接することは得意ではないし、落語家として個人で責任を持ってやりたいという意欲が強くなっていた。また落語家の方が楽しそうだという気持ちもあった。

ところが、彼女は激しく反対した。半年後に教師になったら結婚するつもりだったのに、これから3年間は落語家修行に入るという話なので、彼女が怒るのも無理はない。30歳までには結婚すると約束して何とか収まった。

食事の作り方や掃除の仕方で怒られる

2008年10月に入門、26歳だった。自分の職が見つかったという安堵感はあった。通い弟子で、毎朝9時に師匠の自宅に行って掃除から始まる毎日。基本は9時から5時まで。午前中は稽古をつけてもらったりして、昼ご飯の支度をして師匠と一緒に食べる。午後から仕事があれば、かばん持ちとしてついていく。何もなければ夕刻まで自分で稽古をして過ごすといった生活だった。

落語をほとんど知らないで入門したが、師匠が稽古つけてくれた噺を地道に自分のものにしていけばよいので、それほど困ることはなかった。むしろ食事の作り方や皿洗い、掃除の仕方などの日常生活の各場面でよく怒られた。自分はそういう常識を持ち合わせていなかった。

映画『ベスト・キッド』のようにフェンスのペンキ塗りや車のワックスがけの中に意味があるのかもしれない。私は十分に感じ取れていなかったが、細かい点まで配慮する大切さや周囲の空気を読み取ることにつながっている気がしている。

名古屋の大須演芸場で、東京の噺家さんと同じ出番になることがある。数日間、彼らと同じ舞台に立って、食事の際にいろいろと語り合っていると、修行によって醸成された共通認識というか仲間意識を感じることがある。それは私にとっては心地よいものである。

師匠のチャレンジする姿勢に学ぶ

年季が明けてから14年になった。家族がいて落語家として生活できているという意味では比較的順調に来た。好きなことをやれているので、いい職業につかせてもらったという満足感もある。落語界の縦や横の人とのつながりのおかげだと感謝している。

小春団治師匠は、活動の場を広げて落語の海外公演にも積極的に取り組んでいる。入門してから師匠についてニューヨーク、 シンガポールなど5カ国を廻った。私は太鼓などの鳴り物を担当したり、海外に住む日本人向けの落語を演じたりする。

師匠は高座の背景に外国語の字幕を映して落語を演じる。字幕は日本語のほかに4か国語を出している。すごいと思うのは、噺の途中で師匠が一部ネタを飛ばした時も、外国人のスタッフが、パソコンを早送りして客席に伝わるように字幕を出すタイミングを調整している。また師匠は古典落語や創作落語においても精力的だ。

まずは現在の延長線で、古典落語をさらに掘り下げていくことが第一目標であるが、師匠のチャレンジングな姿勢にも学び、自分の枠組みを広げていきたい。入門するきっかけになった創作落語にトライすることや、師匠や先輩から多くのものをいただいているので、それを下の世代に伝えていけるようになりたいと思っている。
(11/14 神戸新開地の喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

治門さんは、ずっと柔和な表情でいろいろと語ってくれました。部屋の中が終始温かい空気に包まれているようでした。

たまたま私は小春団治師匠が小春時代に、難波のTORII HALL(トリイホール)で、師匠の創作落語の会に通っていた時期がありました。そのため創作落語に惹かれた治門さんのお話を懐かしく聴きました。

治門さんは、自身のことを話すだけではなく、この「私が落語家になったワケ」のインタビューに関心を持って質問などもしてくれました。意見交換できる形になったことは私にとって大変嬉しいことでした。「落語家とのコラボもあり得るかもしれませんね」と笑いながら語ってくれました。

治門さんは、コロナ禍で絵を描き始めてSNSなどにアップすると、思いのほか反響があって、趣味として続けていくそうです。新たなことにも挑戦して、芸の幅を広げて多くのお客さんを喜ばせてほしいと願っています。「期待してまっせ―!」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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