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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
今回は、10/30の喜楽館昼席(〜プロ野球応援ウィーク 答え合わせ編〜)の舞台に立った、
かみじょうたけしさんに「私が芸人になったワケ」のお話を伺いました。
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「人と運に恵まれた」
(かみじょうたけしインタビュー)
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僕は小さい頃には、お笑いの世界には全く関心はなく、テレビ番組で観るくらいだった。一方で、高校野球は小学6年生の時に地元の高校を応援に行ってからずっと興味を持っていた。高3の秋から受験勉強を始めて龍谷大学に入学。大学生活はバイトばかり。競輪場で走路審判補助員といって、競走路内で転倒した選手の救護や障害物の除去をやっていた。
そこで出会った先輩に誘われて、大学3年生の時に松竹芸能養成所の試験を受けた。
他の7組はすべてネタを準備して披露したが、私たちは何も用意していなかった。急遽、「松田聖子です。神田正輝です」と言って、ずっとキスをしていた。審査する人に「お前ら、もう辞めろ」と止められた。「絶対落ちたわ」と思っていたら、私たちだけが合格していた。「のびしろ」を感じてくれたのかもしれない。
1997年に、その先輩と漫才コンビ・ロビンスを組んだ。若手のランクでは、悪くないポジションにいたが、浪花座で3か月に1回ほど10日間の仕事があるくらい。2003年に今宮子供えびすマンザイ新人コンクールで福娘大賞を受賞したが、漫才だけでは食えない。競輪場のバイトは8年ほど続けてチーフにもなった。そのうち相方が結婚してアメリカに行くことになって2006年にコンビ解散。
8年あまり続けることができたのは、先輩や後輩との付き合いが楽しかったからだ。周囲に売れている芸人はいなかったが、お金のない先輩がなんでこんなに僕に奢ってくれるのかと不思議だったり、かっこいいと思う人が多かった。当時、僕は誘われて入っているから、芸で何かをしたいとか、おもろい漫才をやりたいという気持ちはなかった。なんかもう学生の部活のノリだった。
一人になってからは漫談やコントなど色々と取り組んだ。ピンで1年間やってみて、何も変わらなかったら芸人を辞めるつもりだった。ところが、はじめの年に年収が倍になった。次の年も前年の倍になって、2年で何とかバイトなしでやっていけるようになった。
以前から、板東英二さんのモノマネをやっていたが、ある日、楽屋で先輩がテレビ(「ちちんぷいぷい」)を観ているときに、板東英二さんが出演していた。「お前これ僕にほんまに食べろっつってんのか」と番組で発言した後で、僕が同じフレーズを繰り返すと、先輩は「ほぼ一緒やで」と驚いた。その日のライブでやるとめちゃくちゃウケた。
それを「ますだおかだ」の増田さんが観ていて、名古屋で板東さんと一緒にラジオをやっていたのでつないでくれた。板東さんは仕事が早いから、1週間後に自分の関テレの番組にシークレットゲストとして呼んでくれた。僕がフジテレビのモノマネ紅白歌合戦に芸人枠で出場した時にも、板東さん本人が登場して優勝させてもらった。これ以降は、レギュラー番組を持つことができた。
高校野球は、趣味としてずっと観に行っていた。漫才コンビ・ロビンスの時に、とんねるずの「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」にピンで出場して、星稜高校の山下智茂監督のモノマネで合格したこともあった。
2014年7月の「アメトーク!~高校野球大大大好き芸人~」(テレビ朝日)に出演した。その2年ぐらい前に MBSのクイズ番組で芸人の高校野球王決定戦があって優勝した。放送作家がそれを覚えていて、僕を出演者枠に入れてくれた。このアメトーク放送後は景色が一変した。
翌月の夏の全国高校野球の開幕日。阪神甲子園駅を出たとたんに周りに人垣ができた。「アメトークに出たかみじょうや」、「お前めっちゃよかったぞ」、「高校野球を全国に知らしめてくれてありがとう」などと言われて大勢に囲まれた。このまま球場に入ると混乱が起こってはいけないと、開会式が始まるまで外で待っていた。
それから高校野球をはじめ野球系の仕事が一気に増えた。高校野球の人気は、徐々に盛り上がり2018年の100回記念大会でピークを迎える。大阪桐蔭の藤原恭大や、金足農業の吉田輝星とかが注目を集めた。テレビ、ラジオ、また営業の仕事がどっと入ってきた。6ヶ月間休みは1日もなかった。疲労で突発性難聴になった。その後も『アメトーク』は何度も出演して、『爆笑レッドカーペット』や『エンタの神様』などのお笑い番組からも出演のオファーがあった。
かつては、会社から東京に行かないかという話もあったが断った。お前は甘いと言われたが、東京では好きな高校野球を甲子園で観ることはできない。こちらで仕事をして、野球を観て、家族と一緒に楽しく過ごすというライフスタイルを崩したくなかった。1番の目標が「売れたいではなく、幸せな人生送りたい」ってことなので後悔はしていない。
松竹芸能では、当時多くの人が在籍していたが、ほとんどは辞めている。僕よりおもろい人はゴロゴロいた。僕はね、 頑張りすぎずに頑張ったから何とか残ったと思いますね。
高校野球は、地方大会や練習試合も含めて年間かなりの試合数を好きで観戦してきたことが、たまたまフィットした。運が良かった。誰とも戦うつもりもないから必要以上に無理をしていない。また周りの松竹芸能の人たちは、みな心から優しかった。やはり楽しいからこそ続けることができた。
将来は、高校野球のトークイベントで全国を廻りたい。地元の高校野球に詳しい人に話を聞いて、練習も見学したい。高校野球の球児は、夢がかなわないことや、うまくいかないことも多い。でもそこで負けてもいろいろなことを学んでいる。支える家族や監督、先輩にも感謝している。僕らが彼らの背中に教えてもらうことはいっぱいありますよ。
(10/30 神戸新開地の喜楽館にて)
喜楽館の会議室で、話を伺いながら思わず何度か声を上げて笑ってしまいました。語る内容がストレートで本音満載なので、まるで漫談を聞いているようでした。
当日の喜楽館の舞台では、かみじょうさんが高校野球の各場面を小道具も使って再現すると、観客席から大きな拍手が起こりました。
2023年に執筆した著書『野球の子』(二見書房)を読んでみると、かみじょうさんの高校野球に対する溢れ出る愛情を感じます。15編の球児たちのエピソードには、彼らの素顔やひたむきさが描かれています。
個人的なことになりますが、1969年夏、松山商業(愛媛)と三沢(青森)との全国高校野球選手権の決勝戦。延長18回0対0の引き分け試合を私は甲子園の外野席でスコアーブックをつけながら観戦していました。当時は野球部に在籍する中学3年生でした。私にとっては高校野球の一番の思い出なのです。
この話をすると、かみじょうさんは、「昔の高校野球のことを調べたりするのも好きなんです」とのことでした、全国を廻るときに、地元の高齢者に昔の高校野球のことも語って、彼らの思い出を呼び起こしてほしい。元気づけることにつながると思ったのです。「期待してまっせー!」
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。