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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第十七回は桂 佐ん吉さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!
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「落語家への一本道」
(桂 佐ん吉のインタビュー)
本名 黒田 周作
生年月日 1983年(昭和58)年12月23日
出身地 大阪市
入門年月日 2001年(平成13年)9月 師匠「桂 吉朝」
公式X @sankichi
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落語に一番初めに出会ったのは、小学校1年生の6歳の時。親が録画していた『枝雀寄席』(「ABCテレビ」)を見て、『饅頭怖い』と『阿弥陀池』を勝手に覚えてやっていた。
祖母の還暦祝いで披露すると、祖母が素人名人会(MBSテレビ)に応募して出演することになった。予選もあったが、子どもが落語をするのが珍しかったのでスムースに舞台に立つことができたのだろう。それ以降は落語を演じることもなく、野球選手になりたいと思っていた時期もある。
中学校3年生の時に、母親と一緒に枝雀師匠の落語を聴きに行った。その時に吉朝師匠の独演会のチラシに目がとまった。母親が「きっちょう」と松尾貴史さんの愛称である「キッチュ」とを間違えて、「その人はモノマネもうまくて面白いよ」と言うので行ってみた。
初めて師匠の噺を聴いたのは、ワッハ上方(大阪府立上方演芸資料館)のワークショップ。エラの張った地味なおっさんが出てきたと思ったが、『高津の富』にぐいぐい引き込まれた。「なんちゅう面白い人や」と一目惚れ。その後、何度か通い入門志願に行った。師匠から「高校はどないするんや?」と聞かれて、「行きます」と返事をした。「まあ、いろんな人を見てから考えなさい」と諭された。その後は、情報誌「ぴあ」で吉朝師匠の出演情報を確認して、あちこちの落語会に足を運んだ。
大阪府立東住吉高校の芸能文化科に進んだ。演劇や映像放送、伝統芸能などの舞台芸術に関して総合的に学ぶことができる全国で唯一の学科だった。兄弟子の桂しん吉、桂吉坊も同じ学科の出身。当時は、林家染丸師匠が落語を教えに来ていた。
高校に入学する時から落語家になることは決めていた。高校に通いながら落語会の手伝いに行くこともあったが、吉朝師匠からは、「アルバイトするなりして、もっと社会経験を積みなさい」と言われた。まだ子どもなので成長してから来いという趣旨だったのだろう。
高校では卒業に向けての発表会がある。三味線を弾いたり、仕舞を披露したり、舞台で演劇を発表したりする学生もいる。私は、当然ながら落語を演じた。そこで一段落という感じになって、高校3年生の夏休みに「やっぱり弟子にしてほしいです」とお願いした。師匠は受け入れてくれて、2001年9月に入門となった。17歳の時である。就職や大学などの他の進路は全く頭になく、吉朝師匠以外は目に入らなかった。
「とにかく落語がしたい」という気持ちで、自分は結構いけるんじゃないかという根拠のない自信もあった。親は教師と公務員だったが、反対されることもなかった。両親とも落語ファンだったということもあるかもしれない。
高校在学中は、学校が終わってから、落語会の手伝いに行ったりしていた。卒業後は、大師匠米朝の預かり弟子となった。当時、米朝師匠は70代後半になって弟子をとっていなかった。
吉朝師匠は、米朝師匠の自宅近くに住んでいたので、吉朝師匠の弟子が二人ペアで、米朝師匠の自宅に住み込んだ。私は、はじめの一年は兄弟子の吉坊、あとの二年は弟弟子の吉の丞と一緒だった。落語会や放送局に行くときはかばん持ち、自宅では米朝師匠の身の回りのお世話をして24時間ついていた。
そこで、兄弟子から行儀を習い、両師匠を見て落語家としての生活を身に着ける。米朝師匠からは昔の話をお聞きすることも多かった。吉朝師匠には、月に一回程度稽古をつけてもらい、仕事に一緒についていくこともあった。
米朝師匠は80歳になっても、お元気で落語会にも数多く出演されていたが、代演がきかない独演会は辞められた。少し時間ができたからか、また吉朝師匠が忙しかったこともあって、米朝師匠は「ワシが稽古をつける」と言われて、5本の落語を習った。私にとっては貴重な財産になっている。
3年間の内弟子修行を終えて独立。年季が明けて半年余りで、吉朝師匠は病気が再発して亡くなった。15歳の時に入門志願してからずっとお世話になってきた。弟子の間は、自分では何もできず、師匠から言われたことや指導されたことを忠実にこなすことで精一杯。でも独り立ちになれば、教えられた通りにではなく自分流にしていかなければならない。どうすれば良いかと迷ったときには、「吉朝師匠だったらどのような選択をするだろうか」と考えることがある。
2006年9月に繁昌亭がオープンして落語人気も盛り上がり、若手時代は忙しく過ごした。独立してから早くも20年になる。振り返ってみれば、いい世界に入ったと考えている。居心地もすごく良い。
ただ、落語家の仕事は、数値化されない。プロ野球選手であれば、打率3割3分とか2割8分とか実績が数字ではっきりでる。自分の立ち位置やこれから進む方向性を見失わないかと思うことがある。
もちろん独演会をやれば常に満席だと悩まないかもしれない。しかしなかなかそういうわけにはいかない。落語会に来てくれるお客さんも年齢層が上がっているので、10年後、20年後どうなるのかという不安もないわけではない。
しかし自分でコントロールできないことに悩むよりも、まずは足場を固めて、面白い噺を展開して自身のカラーを出していくことが大切だ。
私は落語以外にも、多趣味で関心のあることも多い。プロ野球は昔から好きだし、けん玉をやったり、最近は、レクリエーション介護士の資格を取得した。
落語は、人生経験が滲(にじ)みだす。たとえば、桂ざこば師匠は碁を打つだけに、『笠碁』の碁を打つ場面がすごくリアルだった。多くの経験を通して見聞を広げ、人付き合いを大切にしながら落語家の道を歩んでいきたい。
(10/10 神戸新開地の喜楽館にて)
佐ん吉さんには喜楽館の楽屋でテンポよく語っていただきました。当日の昼席では、冒頭でお客さんに手や腕を動かす体操を一緒にして会場を大いに沸かせていました。
佐ん吉さんの話を聞いていて、他の選択肢が視野にはなく、落語一筋に進んでこられたことが印象的でした。「さかなクン」や、神戸新開地近くで育った映画評論家の淀川長治さんが頭に浮かびました。2015年度に「NHK新人落語大賞」、2016年度に「咲くやこの花賞」を受賞されているのも、若い時からの落語に対する真摯な取り組みが実を結んだものでしょう。
このインタビューを続けていると、一本道で落語家になる人もいれば、社会人を経験してから落語家になる人、紆余曲折を経て落語家になる人など様々な道があることを感じます。それだけ多様で、それぞれがカラーを持っている。いろいろな色の組み合わせが、落語界を魅力的にしているのでしょう。
佐ん吉さんには、自ら進む道を幅広く確かなものにして、多くの客さんを喜ばせてほしいと願っています。「期待してまっせ―!」
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。