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トップページ > ニュース >  私が落語家になったワケ   >  第十六回 「漫才か落語か大学院進学か」<桂 三幸インタビュー>

2024/12/30

第十六回 「漫才か落語か大学院進学か」<桂 三幸インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第十六回は​桂 三幸さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!

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「漫才か落語か大学院進学か」
(桂 三幸のインタビュー)

 

芸名 桂 三幸(かつら さんこう)
本名 井上 幸浩
生年月日 ​1979年(昭和54)年7月2日
出身地 愛媛県
入門年月日 ​2002年(平成14年)4月1日 師匠「六代 桂 文枝」
公式X @umamieast000001

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お笑いとF-1

小さい頃からお笑い好き。小学6年生の時に、海外にいる記者とスタジオとの中継音声にタイムラグがあるのに注目して、質問が1個ずつズレていくという漫才をやった。教室で大いにウケて、先生も今でも「あれはおもろかった」と言ってくれる。  
 
ただ中学、高校の途中までは、あまり前に出るタイプではなかった。高校3年生の体育祭で漫才を披露したときに喝采を浴びたので、そこから再び興味を持ちだした。

一方で、中学1年生からは、世界最速を競うF1(フォーミュラ・ワン)レースに魅せられた。テレビでの中継はすべて欠かさず見ていた。91年の鈴鹿グランプリでのアイルトン・セナの勇姿は今も覚えている。愛媛県の松山東高校に入学して、一時は、F1車のマシンに関わる仕事をしたいと勉学に取り組んだ。しかし東大に行っても厳しい位のレベルが求められるので、学力では及ばないことも分かった。

師匠に漫才をやりたいと相談の手紙を書く

愛媛大学機械工学科に現役で合格。笑いに興味があったので落語研究会に入った。私は地元のテレビ番組に出演していたことがあったので、その番組のプロデューサーが、「三枝(現六代桂文枝)さんに将来のことを相談してみたら」と言って、事務所の住所を渡してくれた。
 
当てにしていなかったが、「ダウンタウンが好きで、お笑いをやりたい」という趣旨の手紙を書いた。投函の2日後に、師匠のお弟子さんから「NGK(なんばグランド花月)に来たら」と電話がかかってきた。その夜のフェリーに乗って、翌日に三枝師匠に挨拶して、近くの喫茶店でお弟子さんに「僕、漫才したいんです」と相談した。帰りに師匠にお礼を言うと、「井上くんな、君、落語に向いてるわ。また来いや」と言われて、「はぁ?」という感じだった。それが師匠との初めての出会いだった。大学3年生の時である。

卒業後の進路選択に悩む

その後、漫才か落語かで迷っていた。2001年の第一回『M-1グランプリ』(漫才コンクール)の一回戦は通過して、二回戦が大阪で実施された。1番手で登場したのは中川家。彼らが、舞台に出て、文字通りドカンドカンとウケるのを目の当たりにした。

漫才では即戦力にはなれないことが分かった。当時は、私がネタを書いて、相方もうまく合わせてくれたが、二人で作り上げる難しさも感じていた。落語は1人でやるし、三枝師匠の元で勉強するのも良いかとも思い始めた。

その後に、師匠のところに挨拶に行って、数日間大阪に滞在して兄弟子と話したり、大阪で舞台を観たりして帰ってきた。仕事内容や人間関係、雰囲気はおおむね理解できたが、実際に弟子入りするかどうかでは迷いに迷った。ずっと愛媛で過ごしてきたので、地元を離れての1人暮らしに対して心理的な抵抗もあった。

大学院の試験も通っていたので、やはり周囲は反対する。自分も2年間大学院に行ってから入門しても良いかとも考えた。当時は、食事がのどを通らないくらい悩んだ。

その頃に「あんた、三枝さんを待たせるってどういうことなん!」と背中押してくれたのは母親だった。工学部の担当教授も、大阪に行くにしても大学院の入学手続きはしておけと配慮してくれた。大学を卒業した4月に桂三枝師匠に入門。22歳の時だった。

時間に追われた弟子生活

師匠はテレビやラジオの仕事のほかに、落語の独演会もあれば、講演会の仕事もあるので、それを支える弟子の対応は大変だった。落語に音源を使うときは、その準備もしなければならない。特に、お芝居の座長公演時は、仕事に忙殺されて寝る間もないくらいだった。入門してからは、常に時間に追われていた。

落語は年間3回発表の場があって、舞台に上がる回数はそれほど多くなかった。ただ、師匠が登場するテレビの収録番組などで、前説を担当することがある。マイクを持って、お客さんに対して拍手の練習をしたり、漫談で場を盛り上げるのも弟子の大切な仕事だった。舞台の袖で師匠が見ているので、お客さんより師匠を笑かそうと思って必死でやっていた。

弟子生活は修行の場

「石の上にも3年」という言葉があるが、弟子になって2年半位した頃には、私生活と、弟子の仕事と、舞台とが一体として手の内に入るような感じがしてきた。兄弟子からは「弟子の仕事は積極的に取り組んだ方が良いよ」と言われてきたが、後輩の弟子にもそう伝えたいと感じている。

振り返ると、愛媛から出てきて、師匠にアパートを借りてもらって一人暮らしを始めた。一人っ子で炊事も洗濯もしたことはなかった。ずっと余裕のない生活だったが、途中で辞めたいとか、迷うことは全くなかった。「修行」という言葉の意味が少しわかるようになった気がしている。

年季が明けたときに、師匠が中華料理店でパーティーをしてくれた。その時の挨拶で「三幸、お前の生きる道は落語やない。R-1で優勝しろ」と言われた。「おー。ちょちょ、ちょっと待って。あんたに落語だと言われて入門したのに」と思わず心の中で突っ込んでしまったが、これも師匠の愛情かなと思っている。

初めて鈴鹿サーキットの実況を担当

先ほども述べたように、私は中学に入学した頃からF1ドライバーに憧れていた。機械工学を専攻にしたのもその関係からだ。今もレースのオンラインゲームには興じていて、昨年は、繁昌亭に有名なゲームレーサーを招いて、「落語とモータースポーツ」という落語会も催した。

 また、先週は鈴鹿サーキットで生まれて初めて実況をしてきた。いきなりの体験だったが、喋るには豊富な取材が不可欠だと痛感したので、今後は全チームに取材に赴いて再び実況もやっていきたい。

モータースポーツに取り組んでいると、自分には落語という軸があることが大きいと感じている。落語があるからモータースポーツに存分に取り組めるし、モータースポーツが落語にも好影響を与えている。相乗効果とともに相互に気分転換になっている。

今後も引き続き古典落語、新作落語を一生懸命やるのはもちろんであるが、モータースポーツにも楽しく関わっていきたい。
(10/4 神戸新開地の喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

三幸さんには、よく通る声で明快にお話いただきました。落語家に弟子入りするかどうか迷った場面で、「当時は、スーパー優柔不断でした」との発言を聞いてよほど悩んだのだろうと感じました。

この日の喜楽館の昼席のネタは、「ラスト一球」。舞台上でグローブとボールとをもって登場した。お客さんにボールを渡して、キャッチボールを繰り広げながら、アドリブでやり取りをしていくという型破りの落語に驚きました。会場のお客さんから面白い反応があって盛り上がりました。

「鈴鹿サーキットで実況をしてきた」と話す三幸さんの嬉しそうな顔を見ていると、本当に好きだということが伝わってきました。レースに関わる人たち、主役のレーサーだけはなく、マシンやタイヤの整備に無我夢中になっている人や、縁の下の力持ちとしてレースの運営を支えている人たちの物語をぜひ創作落語にしてほしいと勝手に思ってしまいました。いいろいろなチャンレンジを通して、これからも楽しませてください。「期待してまっせ―!」。

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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