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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第十五回は桂 三四郎さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!
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「2回の危機も師匠に助けられた」
(桂 三四郎のインタビュー)
本名 野津 瑛司
生年月日 1982年(昭和57)年2月24日
出身地 兵庫県
入門年月日 2004年(平成16年)4月1日 師匠「六代 桂 文枝」
公式サイト https://346katsura.com/
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中学時代は、プロレスラーに憧れて、神戸市の育英高校でアマチュアレスリングを始めた。兵庫県でレスリング部があるのは4校だけ。体重による階級別なので、数人に勝てばインターハイにも出場できた。クラブの合宿時の演芸大会でネタを書いて披露することもあったが、テレビのお笑い番組もほとんど見ていなかった。
2000年に福岡の第一経済大学に進学すると、 当時お笑いブームで、大阪の芸人が東京で注目されていた時期だった。 関西弁で喋るだけで、学内で面白い面白いと言われるようになった。3回生になると、芸人になろうと考えた。就職するつもりはなく、当時は自信に満ちていた。
しかしNSC(吉本総合芸能学院)への入学には40万円が必要。大学生には一度に払えない額だった。その頃に、親父から村上龍先生の『13歳のハローワーク』が送られてきた。そこには漫才師と並んで落語家の記載があった。相方を探すのも大変だし、ピンでやるのもどうかと思ったので興味を惹かれた。
六代桂文枝(当時、桂三枝)師匠の創作落語のCDを購入して、最初に聴いたのが『ゴルフ夜明け前』。めちゃくちゃ面白いし、噺の展開にも魅了された。自分で台本を書いて、演じたい気持ちも強かったので、さらに引き込まれた。
しかし入門の仕方がわからない。師匠の落語会は電話を入れてもすぐに完売。そこで「桂三枝 住所」とネットで検索すると、師匠の個人事務所の住所が出てきた。
大学4回生の2月に履歴書を送ると連絡が来て、事務所の人と師匠に相次いで面接、後日には親と一緒に師匠とお会いして4月に弟子入りが決まった。兄弟子があと1年で年季明けだったので、引き継ぎをするのにタイミングも良かった。私が22歳の時だった。
トントン拍子に入門までは進んだが、弟子としてうまく機能できなかった。
師匠は落語会、独演会だけでなく、テレビやラジオのレギュラー、講演会などがあって仕事の幅が驚くほど広い。その準備と段取りは、細かく多岐にわたる。当時は大きなスーツケースを弟子がいつも持ち歩いていた。
私は細かいことを適当にやってしまうので、ミスが多くてよく怒られた。夜中に酒を飲んで翌日にしくじることもあった。また落語を演じても思ったようにはウケない。今までの自信も崩れかけていた。2年目になると、師匠について現場に行くよりも事務所待機の日が増えた。弟子の仕事で失敗することが多かったからだ。
3年目の2006年9月に、天満天神・繁昌亭がオープン。開場の前後からオープニングスタッフみたいな形で、毎日繁昌亭に通った。
皆さんのお茶を入れたり、着物畳んだり、掃除やお客さんの呼び込みもやっていた。先輩方からは太鼓のたたき方を教えてもらい、毎日師匠や先輩の落語も聴くことができる。楽屋番を一生懸命やっていると周囲から感謝もされた。自分の居場所ができたことが何より嬉しかった。繁昌亭のオープンに関わらなかったら落語家を辞めていたかもしれない。
3年間の年季が明けた4月2日から1年間は、前座の仕事でスケジュールがびっしり埋まった。年間で200席以上はこなした。繁昌亭で知り合った師匠や先輩が呼んでくれたからだ。持ちネタはまだ少なかったので、当時の落語ファンは、「三四郎は同じネタしかせえへん」と思っていただろう。
独立して4年目に、ラジオ番組『MBSヤングタウン日曜日』で鶴瓶師匠のアシスタントとしてレギュラーが決まった。同じ頃に、「ルミネtheよしもと」に出演したときに、漫談を披露すると非常にウケたことなどもあって、東京でやりたい気持ちが高まった。自分に合った幅広い仕事ができるのではないかと考えたからだ。
吉本興業に相談したら、「大阪でレギュラーをもって仕事も増えそうなのに」と反対された。ただ私は「これをやる」と決めたら突っ込んでしまう性格。2010年10月に東京に引っ越した。大阪の仕事は、週に2回夜行バスを使ってこなしていた。
しかし東京には確かな足場がなかったのですぐに仕事はなかった。さらに、まもなくして東日本大震災が起こった。お笑いブームも一気にしぼんで、休む劇場も続出した。預金通帳の残高が毎月減り続ける。バイトをすることも頭に浮かんだ。
上京して1年目に、うちの師匠が「ほっともっと」のお弁当のテレビCMで、私を含めた4人の弟子を使ってくれた。これが契機で東京での仕事が回るようになった。
自分の落語会の集客に力を入れていると、「CMに出ているあの人だ」ということで信用される感じがあった。そうしているうちに落語会にお客さんが入りだした。映画出演やお芝居の話も舞い込むことがあって何とか食っていけるようになった。
危機に陥った時には、繁昌亭のオープンやテレビCMの出演で助けられた。いずれも六代桂文枝師匠が関わっている。不肖の弟子を救ってくれたことに感謝している。
上京してから14年で、もう東京の方が圧倒的に長くなった。当初は、古典落語だけでは周囲から頭を抜け出すことは難しいと考えて、新作落語を中心に取り組んだ。私と同世代や若い人たちは、新作の方がわかりやすくて面白いという反応だったからだ。
イベントの司会や討論会のMCを依頼されることもあって、相変わらず仕事の幅は広い。しかし、やはりホームグラウンドは落語である。
42歳になって、自身がより古典落語の世界にマッチするようになってきたと感じている。最近は古典落語を演じる機会が増えている。いずれにしても当面は東京で頑張っていきたい。
(9/26 神戸新開地の喜楽館にて)
弟子当時の失敗談も含めて忌憚なくお話しいただいたので非常にわかりやすいインタビューになりました。よく通る声が印象的でした。
興味を持ったのは、父親が、『13歳からのハローワーク』を送ってくれたことでした。心配して何らかの助けになればという気持ちだったのでしょう。「落語家」の説明個所には、「喋り1つで人を笑わせ、ときに泣かす。江戸時代から日本人に愛されてきた伝統芸能だ」とあります。三四郎さんは、ここに何かを感じたのでしょう。
また余談ですが、9月に浅草演芸ホールで落語を聴いたときに、ある落語家さんが、マクラで法律事務所のテレビCMに出ていることを何度か強調して会場を沸かせていました。一つのステータスという位置づけがあるのかもしれません。
三四郎さんは、令和5年度の「彩の国落語大賞」を受賞されました。「笑点」レギュラーの林家たい平師匠をはじめ、歴代受賞者には、いずれも人気と実力を兼ね備えた落語家がずらりと並んでいます。三四郎さんも大きく羽ばたいてください。「期待してまっせ―!」
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。