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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第十四回は桂 慶治朗さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!
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「落語を通して新たな自分を発見」
(桂 慶治朗のインタビュー)
本名 佐々木 慶喜
生年月日 1984年(昭和59)年4月24日
出身地 大阪市生野区
入門年月日 2012年(平成24年)5月19日 師匠「五代目 桂 米團治」
公式X @k_kjro84
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小さい頃から目立つこと、とくに人を笑わせることは好きだった。25mを自由に泳いでよいと言われると無理に犬かきをしたり、小学3年生からはコントを書いたり。中学・高校でも何かを作り、発表する際には、いかに注目されるかを考えていた。とにかく人から「面白い!すごい!」と言われることを第一に求めていた。
ただ地道な努力ができない、人の感心がないとやる気を起こさない性分だったので、高校時代は毎年留年ギリギリで、なんとか卒業できたレベル。同級生の多くが進学するなかフリーターになった。
いろいろなアルバイトを経験しながら最後は工場勤務に落ち着き、それから1年ほどした頃に改めて将来のことを考えた。「このままでは嫌だ、やっぱりみんなからすごいと思われる人になりたい」と一念発起、大学受験に挑戦して甲南大学に合格した。
大学時代は基本的にはごく普通の生活を送った。ただ学業でもアルバイトでもやはり「すごい」と思われることを求めて課題や目標に取り組み、また実際に達成することで、「やはり自分は何か特別なことができるのでは」という思いが大きくなっていった。
しかしまずは普通に就職しなければと就活はした。第一条件は給与が高いこと。母子家庭でしたので早く親に楽をさせたかったのと、漠然とだがいつかは執筆や講演などのフリーの仕事をしたいと考えていたので、早くお金を貯められるようにとの思いからだった。
その結果、不動産会社に就職。実績を挙げれば、驚くような高収入を得られる会社だったので、望みには合致していたが、業務自体は強気の攻めの営業一本やり、毎日ひたすら電話営業というのが合わず、苦しんだ。
入社して1か月ほどしたある日、休日に家でぼんやり過ごしていると、突然「あ、そうや。落語家になろう」と思い立った。当時、落語にほとんど関心をもっていなかったので、多くの人から「そんなことあるの?」と驚かれるが、そうとしか言いようがない。ただ、落語を知ったときから「これは多分、自分の得意な分野だろうな」という直感はあった。すぐにネットで『落語家になる方法』などを検索して、師匠探しを始めた。
しかし、色々な落語会を観て回っても、面白いとは感じるものの今一つぴんとこない。そもそも落語が好きなわけでもなかったので、「結局は落語と合っていないのでは」と徐々に暗い気持ちになっていった。そんなとき、あるTV番組を見たのをきっかけに、小さい頃から知っていた師匠・米團治を改めて思い出し、「いま、どんな人でどんな落語をされるんだろう」と動画検索をした。上がってきたのは演目『親子茶屋』。一度聴いて「これだ!」となった。噺の登場人物が本当にいきいきとしていて、「落語がやりたい」ではなく「これがやりたい」となった。もちろん落語も大好きに。
会社の休日と師匠の落語会が重なる日を探して会に通い、1年後に会社を退職して、すぐに弟子入り志願に動いた。不安もあったが、落語家になりたい思いは強く、自信もあった。思いのほかすぐに師匠から良いお返事をいただいた。後に知ったが、一番上の兄弟子が内弟子を卒業する直前だったので、ご縁を感じていただけたようだ。
未経験で入った世界だったが、正直に言って落語自体を難しいとか、できないと思うことはなく、師匠からも落語で大きく怒られることはなかった。むしろ叱責は日常生活の方が多かった。とくに知ったかぶりや自分の判断への過信などについて。「自分はすごいんだ」という驕りが色んな場面で出ていたと、今から振り返ると感じる。師匠はそれを気づかせようと注意されたにもかかわらず、当時の私は素直に受け取ることができずに、「怒られるが、私にはこういう良い所もある」と凝り固まった自信を守っていた。
年季が明けて独立後はありがたいことに落語会の出番も多く、高座では自分のアレンジでお客さんにもウケたのでどんどん自信をつけていた。そんなとき、たまたまある方の芸歴1年目の高座音声を聞かせてもらう機会があった。驚いた。1年目にして目を見張るほどのプロの口調とそこから広がる古典の世界。努力の意識次第でこんなふうになれたのかと愕然とした。「このまま進んではダメだ、まずは自分のやり方ではなく噺そのものの面白さをしっかり引き出すことが第一だ」と、基礎からやり直すことにした。
そうして改めて落語と向き直すと、見えていなかった落語の奥深さや素晴らしさに気づけるようになり、師匠方の落語がウケている理由を自分なりに言語化できるようにもなってきた。ただ、同時に重大なことにも思い至った。この世界において必要なのは、持って生まれた輝き・ひたすら積み上げた研鑽・深い愛だと。自分にはそのどれもないと気づいた。師匠のようにはお客さんを喜ばせることはできない。今までの人生で称賛される機会があったのは、人より少し器用だっただけだ。そう思い至ったときに「自分はすごい人ではないのだ」と自信が崩れ落ちた。「入ってくる世界を間違えた」と思うほど落ち込んだ。しかし、それでも支えられて過ごしてきた世界。「今までの自分に何もないなら、ここから積み上げよう」「落語の中から自分を消して、噺を主役にその面白さを伝えよう」という想いを新たに、研鑽を重ねることにした。
そして芸歴12年目でいただいた『NHK新人落語大賞』。しかし、取り組みに対する自信はつけてもらっても「自分はすごい人ではない」という認識は変わらない。これからも「噺家として積み上げたもの」で、落語の魅力をより多くの人に伝えられたらと思っている。
(9/19 神戸新開地の喜楽館にて)
今回の桂慶治朗さんに対するインタビューは順調に進んだのですが、慶治朗さんと私との間にギャップがありました。
私は、「高校卒業→フリーター→大学生→不動産会社→落語家」というキャリアの変化に関心がありましたが、慶治朗さんは、むしろ自身の内面の変化にポイントを置いていました。その違いが分かったので、インタビュー後に慶治朗さんと意思確認のやり取りをさせてもらいました。対話が順調に進んでいても、相手も自分と同様に考えていると鵜呑みにしてはいけないと反省もしました。
慶治朗さんは、ある方の芸歴1年目の高座音声を契機に大きな気づきに至りました。おそらく自分が何かを求めているときや渇望感のある時に、そのようなきっかけが訪れるのではないかと思いました。今後も研鑽を重ねる中で、いくつもの新たな発見をしながら、落語の魅力を多くの人に伝えていってください。「期待してまっせ―!」
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。