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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第十三回は林家 竹丸さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!
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「NHK記者から落語家へ」
(林家 竹丸のインタビュー)
本名 前田 仁
生年月日 1965年(昭和40)年8月1日
出身地 兵庫県宝塚市
入門年月日 1995年(平成7年)8月1日 師匠「林家 染丸」
公式X https://ameblo.jp/h-takemaru/
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7歳年上の兄が落語好きで、家に米朝師匠や枝雀師匠のカセットテープがあってよく聴いていた。中学生の時に、「枝雀寄席」が朝日放送で始まった。枝雀師匠とゲストとの対談と落語の2部構成だったが、その番組にハマった。ただ、クラスの前に出てパフォーマンスをするタイプではなかった。
現役で神戸大学経済学部に入学。どの部活に入るか迷ったが、学内寄席をみて楽しそうだったので落語研究会に入部した。実際に演じてみると、やり方次第で面白くできると分かってのめり込んだ。
落語研究会は4回生で引退。マスコミ志望で新聞社を中心に就職活動をしたが、うまくいかなかったので、1年留年してNHKの記者職で入社した。
初めの赴任地は徳島放送局。いつも大きなニュースがあるわけではないので、自分で工夫して伝える面白さを感じていた。当時は記者職をずっと続けていくつもりだった。
5年後、大阪放送局に転勤した。経済班で、製造業、金融などの担当。栄転の形だったが、徳島のように広く浅くではなくて、狭いところを深く掘る。新聞社や他局とも抜いた抜かれたの競争も激しい。大きい買収話などが出ると、役員宅に夜討ち朝駆けも当然で、毎日日付が変わるぐらいまで働いた。人の手触りが感じられないニュースを伝えることに対して疑問も抱くようになった。
学生時代に通ってた、神戸元町の地域寄席「恋雅(れんが)亭」に行くと、「おおっ、あの人は、こんなにうまくなってるんや」とか、 大学の落語選手権に出た他大学の同期がプロの落語家として演じている姿を見て羨ましいと感じた。
知人のプロの落語家と話していた時に、林家染丸師匠のことが話題になった。恋雅亭で師匠の「小倉船」を聴いたことを思い出した。浦島太郎のパロディーともいえる、SFチックな噺だが、非常に印象に残ってた。それからは染丸師匠の高座によく足を運んだ。
直接の弟子入り志願というよりは、打診というか、30歳直前でも入門は可能かという趣旨のお手紙を染丸師匠に送った。
1995年1月14日、 寄席の終了後にお声がけすると、師匠は手紙のことを覚えていて、近くの喫茶店で話す機会をいただいた。
落語家は、道楽商売やからいつ食えるようになるか分からない。しかもNHKのようなしっかりした会社にいるのだったら妙な料簡は起こさない方が良いと説得された。同時に芸人は舞台に上がったら年齢は関係ないというお話だった。
「わかりました」といってそのまま帰った。「芸人に年齢は関係ない」という言葉が頭に残っていた。その3日後に、阪神・淡路大震災が起こった。
家に帰る暇もないぐらい忙しくなった。大阪のメンバーも総出で取材に走り回った。神戸製鋼所の高炉が止まった等の企業の被害状況の取材に忙殺される毎日だった。
直接取材をしたわけではないが、報道で、司法試験を目指していた神戸大学の学生さんが犠牲になったとか、 たまたまその日だけ神戸に泊まりに来た人が命を落としたという話を聞いた。せっかく助かった命であれば、1番やりたいことに挑むべきではないか。
取材も少し落ち着いた4月になって、師匠にお世話になりたいと直接申し出た。師匠は、「いや、もう1回よう考えなさい」という反応だった。
連休が明けた5月に、誠意を込めて師匠にお願いすれば受け入れていただけるのではないかと勝手に考えて会社に辞表を提出した。
あらためて自宅に伺って、「辞表を書いてきました」と話すと師匠は大変驚いた。4月にお会いした時は、割とご機嫌が良かったが、この時は非常に険しい顔だったが、「正式に会社を退職したら、うちに来たらええわ」と言っていただけた。辞めたんだったら仕方がないと思われたのかもしれない。
6月末でNHKを退職して、7月は各方面の挨拶回りとこれからの準備をして、8月1日付けで入門となった。丁度30歳になった時だった。
師匠は、前の世界の経験はプラスだが、余計なものも身に付いてるだろう。前職の垢を落として、この世界のしきたりを一から覚えないかん。「修行は他の弟子と同じようにやらせるぞ」と言っていただいた。
今の林家菊丸(当時、染弥)兄さんが、一緒に修行をしていた。私の方が9歳年上でやりにくかったかもしれないが、着物のたたみ方から全て丁寧に教えてもらった。
2年の年季が明けてからは、なんとかこれで生活していかなければならないと夢中だった。それから周囲の人にも助けられて30年やってきた。一昨年に、今までの落語家の体験を綴った『林家竹丸のおもっしょい日常』(浪速社)という本を出すことができた。落語家には定年がないので、これからも新たなことに取り組んでいきたい。
振り返ると、私にとって落語界の一番大きな変化は、年齢の高い人も普通に入門してくるようになったことだ。30年前は、20歳前後で弟子入りするのが通例で、私は常識破りの遅い入門だった。当時の楽屋の先輩たちの驚きを今もよく覚えている。
楠木さんから、その理由を聞かれたが、終身雇用の考え方が揺らいで生き方が多様化している。落語家になろうとする人の感覚も変わってきたのだろう。自分がその先鞭をつけたのかも、というささやかな自負は持っている。
繁昌亭や喜楽館などの定席の寄席ができたことも大きい。特に2006年に繁昌亭ができた時の盛り上がりは忘れられない。落語界の裾野が一気に広がったように感じた。また桂米朝師匠の存在も大きい。私の入門の翌年に、人間国宝に認定されて、後に演芸人として史上初の文化勲章受章者となっている。私がNHKを退職する時には、「なんで落語家なんかに」という受け止めもあったが、世間が落語家を見る目も変わってきたような気がしている。
(9/9 神戸新開地の喜楽館にて)
実は、林家竹丸さんにインタビューしたのは、今回が初めてではありません。今から20年近く前に、取材に応じていただいて、朝日新聞の連載コラムに登場いただきました。会社員から異なる仕事に就かれた人に一人ずつ話を聞いて、その転身のプロセスを紹介していたのです。
蕎麦店を開業、社会保険労務士で独立、大学教授に転進、美容師に転身、市会議員に立候補などなど、多様な職業に移った元会社員を取り上げました。30歳になって、NHKの記者から落語家に転身した竹丸さんの記事は当時話題になりました。
この「私が落語家になったワケ」でも、小学校の先生、製薬会社のMR(医薬情報担当者)、バイク会社の工場長など、一度社会人を経験して落語家に転身する人もいます。私も生き方、働き方が単線でなくなったことを感じています。
また、竹丸さんは、阪神・淡路大震災に遭遇したことが落語家になるきっかけになっています。取材を続けていると、自分の病気、災害・事故に遭遇したこと、リストラされた、家族の問題を抱えているなど、外から見ると、挫折や不遇の体験が次の転身につながる人が少なくありません。
今回の喜楽館の取材においても、20年前と同様に竹丸さんには丁寧にお話をいただきました。大変感謝しています。これからもご活躍ください。「期待してまっせー!」
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。