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2024/11/04

第十二回 「入門までの6年は熟成期間」<桂 福丸インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第十二回は桂 福丸さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!

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「入門までの6年は熟成期間」
(​桂 福丸のインタビュー)

 

芸名 桂 福丸(かつら ふくまる)
本名 中野 正夫
生年月日 1978年(昭和53)年4月29日
出身地 兵庫県神戸市
入門年月日 ​2007年(平成19年)2月1日 師匠「桂 福団治」
公式X https://katsurafukumaru.com/

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阪神・淡路大震災に遭遇

灘中・灘高当時は、一貫して硬式テニス中心の生活だった。演芸も好きだったが、学園祭でパフォーマンスをして人気者を目指すようなタイプではなかった。もともとは図書館にあった「一休さん」の絵本や「吉四六(きっちょむ)」のとんち話などのお話の世界に入ると落ち着く小学生だった。子ども向けの落語の本を読むこともあった。

灘高の1年生の時に、阪神・淡路大震災に遭遇。マンションは半壊になって、およそ1カ月の避難生活を経験した。生きていてよかったと思うと同時に、周囲の大人が自分勝手な態度をとったり、見知らぬ人同士で助け合ったりするなど、色々な人間模様も垣間見た。その頃に、漠然と「人を幸せにする仕事」を意識するようになった。

高校を卒業して、京都大学法学部に現役で合格。大学の4年間もテニス中心の学園生活だった。音楽、演劇、寄席などの舞台芸術に興味はあったが、落語に絞っていたわけでもなく、落語研究会にも入っていなかった。法律は自分には向いていないと感じたので司法試験にもチャレンジすることはなかった。

舞台芸術を見て回る

大学の3回生になると、そろそろ将来のことを考える。何をするかは決まっていなかったが、舞台芸術に関わる仕事をしたい感覚は引き続きあった。そこで就職活動はしないと決めた。親からは「そんなに早く選択肢を絞らなくても良い」と説得されたが踏み切った。

2001年に卒業してからは、大阪でコンビニや居酒屋でアルバイトしながら、漫才、即興演劇、コントなどに取り組んだ。俳優にも関心があった。

元々演芸ファンなので、ワッハ上方(大阪府立上方演芸資料館)で、過去の落語や漫才のCD・カセットを視聴したり、当時は、ナンバのNGK(なんばグランド花月)2階席の入場券を購入して観覧したり、その近くの浪花座や各地域の寄席にも顔を出したりした。毎日のように、演芸のみならず音楽や芝居の生の舞台に浸っていた。

2001年から4、5年は、人生で一番多く客席から舞台を観た。今から振り返ると、とても貴重な期間だったと感じている。椅子に座って始まる前のわくわくする気持ちが何とも言えなかった。

英語落語に出会う

即興演劇をやっている外国人のパフォーマーと知り合ったことがきっかけで、英語落語に出会う。大阪淀屋橋にあった英会話スクールに、英語落語のクラスがあってそこに通い始めた。そこでは、現在プロとして活躍されている方々も、英語落語を学んでおられた。

教材を参照しながら英語落語の噺を家で演じたときに、非常にフィットする感覚があった。小さい時から落語が好きだったことを再び思い出した。英語落語を学校寄席で演じると、自分の肌に合うことが確信できた。

もちろん英語落語から古典落語に収斂するには少し時間はかかったが、舞台芸術という抽象的な対象が、落語という具体的な方向にまで絞り込むことができた。

そこから師匠探しが始まる。今まで落語会も数多く観ていたので、師匠方のタイプはつかめていた。福団治師匠とは共通の知り合いがいて挨拶する機会があった。また高石市での落語会の打ち上げで、師匠と話したときに落語の手触りをすごく感じた。師匠の噺は、演者が消えて登場人物が中心になる芸だ。小学生の頃に絵本を読んでいた時の感覚を思い出した。

弟子入りは比較的スムース

師匠に弟子入りしたいと伝えると、「稽古場に遊び来たらえぇ」と言ってもらえた。

2か月ほどの見習いを経た後に、2007年2月1日、師匠から正式に名前をいただいた。28歳の時だった。入門までの6年間は熟成期間というか、自分に合わないものをそぎ落としていくプロセスだったのかもしれない。

この間、不安は山ほどあったが、自分で決めたことなので不満はなかった。仕事は後から引き寄せられてくるものだという実感が私にはある。

3年間の弟子期間は、ほとんど自由がなかった。夜中であろうがなんだろうが、電話がかかってきたらすぐに駆けつけなければならない。毎朝、稽古場に入って掃除を終えて師匠を待つというルーティンだった。そこで師匠から稽古を付けてもらうこともあった。当時は、繁昌亭が誕生(2006年9月)してまもなくの時期だったので、上方落語界も盛り上がり、寄席に手伝いに行くことも多かった。

「子どもだけ寄席」も実施

2020年から始まったコロナ禍で、落語会は次々と中止に追い込まれた。家族を持つフリーランスの厳しさを感じるとともに、社会と仕事とのつながりをあらためて考えさせられた。

当時は、全国一斉に休校になった。家にいる子どもの対応を求められた家庭も多かった。自分も親として何かできないかと考えて、3月に休校中の子どもたちに向けてYouTube(ユーチューブ)で落語を配信。8月にはオンラインでの親子寄席を開いた。少しでも家で安心して過ごしてほしかったからだ。

手応えを感じたので、大人は入場禁止の小学生だけに限定した「子どもだけ寄席」も実施している。私が忍者に扮して落語の解説をしたり、子ども向けの楽しい落語を鑑賞してもらったりしている。ライブで落語を楽しむことは、豊かな想像力や優しい気持ちを育むことにもつながるのではないだろうか。また子どもさんが面白いと感じてくれると、親も落語会に来てくれることが多い。

子どもに落語を届ける活動は、30年くらいは続けようと思っている。その中から落語に興味を持つ子どもや、落語ファン、落語家が生まれるかもしれない。落語にかかわりを持たなくても、生の舞台を客席で見るという経験を大切にしてほしいと願っている。自分の原点でもありますからね。
(8/22 神戸新開地の喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

福丸さんの話を聞いて自分のやりたいこと(落語)に、時間をかけてじわりじわりと近づいていく姿勢に驚くとともに、羨ましくもありました。自分自身に本当に合ったことを見つけるためには、やはり試行錯誤は避けられないのでしょう。
インタビューの当日、8/22の喜楽館の昼席で、桂福丸さんはラクゴニンジャになって一番太鼓を打ち(写真)、高座では、小学一年生の男の子を舞台に上げて、うどんの食べ方を指南しました。男の子が、左手でうどんの鉢を持つ仕草をして、扇子をお箸に見立てて、「ズッズッ」と音を立ててうどんをすすると、会場から大きな拍手が起こりました。

子どもに生の舞台を提供するというお話を聞いて、かつて新開地の神戸松竹座で、奇術のゼンジ―北京、腹話術の川上のぼる、漫談の西条凡児、音楽ショウの横山ホットブラザーズなどの各師匠方の姿を思い出しました。

何かに役に立っているかどうかはわかりませんが、私にとって大切な財産であることは間違いありません。ひょっとしたら今回の「私が落語家になったワケ」の連載にも影響があったのかもしれません。益々、落語家として活躍されるとともに、次世代を担う子どもたちに生の舞台の楽しさを届けてください。「期待してまっせ―」

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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