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執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。
第十一回は笑福亭 笑利さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!
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「再びお笑いの世界に戻る」
(笑福亭 笑利のインタビュー)
本名 米津 卓
生年月日 1983年(昭和58)年10月1日
出身地 京都府
入門年月日 2014年(平成26年)9月30日 師匠「笑福亭 鶴笑」
公式X https://x.com/shofukuteishori
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お笑いに関心を持ったきっかけはラジオだった。中学2年生の頃、『MBSヤングタウン』から聴こえてくるジャリズムやメッセンジャーの語りに引き込まれた。
「来週のお題は」という問いかけに応じてハガキを出す。彼らの興味や関心の傾向を調べて、どうすればハガキを読んでもらえるかを徹底して考えた。ラジオを通してお笑いの基礎を学んだ感じがしている。放送内容をラジカセに録音して日中もよく聞いていた。
高校時代はハンドボールに没頭。新たにキングコングなどのラジオ番組も聞きだして、テレビのお笑い番組にも刺激を受けていた。その頃に『M-1グランプリ』も始まった。
高校卒業時にNSC(吉本総合芸能学院)に入学するつもりだったが、親に激しく反対された。その結果、テレビ・映像・音楽関係の人材育成を目的とする専門学校に通い出した。同時にお笑いのオーディションも受け始めた。
二年目になって、専門学校で学ぶ意欲がないことは親も分かって中退。入学したNSCは大阪だけで600人ほどいたが不安はなかった。ウケルという感覚が自分の中にあると思っていたからだ。NSCでの1年間は順調だった。入学してから相方とコンビを組んだが、夏に入るとレベル分けがある。同期の、かまいたち、天竺鼠、藤崎マーケットなどと一緒の選抜グループにいた。
2004年春に卒業して、2005年9月にbaseよしもとの劇場メンバーに入ることができた。ところが、出番を得た翌月に相方が音信不通になった。
私自身は漫才をやる際にはネタも相方も追い込むタイプだった。相方からすれば耐えられなかったのかもしれない。
新たにコンビを組んで、ある程度の評価は得た。しかし自分の気持ちが乗ってこない。なにか燃え尽き症候群のようだった。やらなければならないという気持ちはあるが、意欲がついてこない。
描いていた理想のコースが崩れて、初めて自分はうまくいかないのではないかと自覚した。相方を何人か変えて形だけはつけていたが、熱い思いは戻らなかった。
2010年にキングオブコントで3回戦に進出したのを最後にコンビ解散。同期も売れだして、関西で賞をもらったりしていた。「俺はあかんなぁ」とゆっくりフェードアウトしていけばよいかという感じになった。ただ他の仕事に移ろうとは考えず、飲食店でバイトをしながら過ごしていた。
その後は、芸人が出演するテレビ番組を見ることができず、知らない田舎に行って、1週間ほど泊まり込みで稲刈りの仕事をやったこともある。定職はなく、まさにその日暮らしで「1万円あれば数日は過ごせるなぁ」という感じだった。その3年ほどは放浪のような生活で、何処で何をしていたかの明確な記憶はない。
2014年2月、横浜にいた時に、母親から長文のメールが入った。「乳がんになって手術は終了。これから数年間抗がん剤治療になる」という連絡だった。
あわてて実家に戻ったが、親を温泉に連れていこうと思ってもお金もなくて何もできない。母親は幸い健康を取り戻したが、当時は先のことが全く見えなかった。
「俺は30歳にもなって一体何をしてきたんだ」。落ち着いてくると、「母親に何ができるのか」、「自分はこれからどうするのか」という二つの課題が浮かび上がってきた。
振り返ってみると、今までお笑いだけはやってきた。NSC同期の月亭太遊が落語家になっていたので、2014年4月に彼を招いて小さな落語会を催した。母親の知人や友人が来てくれた。
その後は、私が主体となって月に一、二回ボランティアの落語会を開いた。またイベントの一つのコーナーで私が落語を演じることもあった。7月くらいに今までとの感覚の違いに気づいた。
かつては、「俺を見てくれ、俺の漫才のネタはすごいぞ」というスタンスだったのが、「来てもらうお客さんのために」という気持ちで楽しんで演じていた。落語は一人でもやれるし、この感覚であればお笑いの世界に戻れるかもしれないと思った。
憧れていた笑福亭鶴瓶師匠が落語を始めたというので繁昌亭にはよく足を運んでいた。取り組んでいるボランティアでの落語も続けたい。落語家名鑑を見て、そこから検索してネット記事やYouTubeで調べた。
笑福亭鶴笑師匠がアフガニスタンの避難民キャンプや子ども病院でお笑い公演をした記事が目に飛び込んできた。その帰国報告会のイベントで鶴笑師匠を見て、自分がやりたい落語を体現していると感じた。翌月の繁昌亭の出番後に弟子入りをお願いした。
師匠は、最初はとても驚かれて「まさか俺に来るとは思っていなかった」という受け止めだった。近くの喫茶店で、今までの経緯や気持ちを率直に述べると話はスムースに進み、その場で弟子入りを認めていただいた。2014年9月、30歳の時だった。
実は、帰国報告会では師匠はアフガニスタンの絵本を読んでいたので、人形を使ったパペット落語もライブの舞台は観ていなかった。芸というよりも「この人だ」という直感が大きかった。
師匠に、落語の稽古もつけてもらったが、基本は「弟子が伸びたい方向に行くのを応援してやればよい。手を入れない」というスタンスだった。師匠の自宅での内弟子修業はなく、2年間の弟子期間は、仕事の現場で月に2,3回お会いして前座を務めたりすることが中心だった。楽屋周りのいろいろなことは諸先輩に教えを乞うことが多かった。
年季が明けてからは、新作落語を中心に高座にかけながら、他の師匠に古典落語の稽古をつけていただいた。入門して10年経っても、落語の外側の縁が僅かに見えてきた位のもので、まだまだ奥が深いと感じている。
今年は、10年という節目もあって「20ヶ月連続古典落語根多下ろし公演」と銘打って、毎月古典落語のネタおろしに取り組んでいる。
各師匠に稽古をつけてもらって、それを自分で咀嚼して吸収していく。観客の前で演じることができる完成形にするプロセスの繰り返し。正直いって楽ではないが、落語家として新たな成長に結びつけることができればと考えている。ありがたいことに多くのお客さんに来場いただいている。また母親も落語家の自分を応援してくれている。
2024年6月には、繁昌亭での『第十回 上方落語若手噺家グランプリ2024』で優勝することができた。これも弾みに、さらなる研鑽を続けていきたい。
(8/20 神戸新開地の喜楽館にて)
私の質問に対して、笑利さんは長身の堂々とした体躯からよく通る声で答えてもらいました。印象に残った一つは、同期が600人いたNSC(吉本総合芸能学院)で、「自分はやっていけるだろうか」という不安は全くなかったとの発言でした。20歳前後の若さもあるのでしょうが、これくらいの自信を持っていないとやっていけない世界なのでしょう。
もう一点は、笑福亭鶴笑師匠に弟子入りされたことは、「なるほど」と勝手にうなずいてしまいました。昨年夏、『神戸・新開地体験ツアー』を企画して、仲間と一緒に喜楽館の昼席で鶴笑師匠のパペット落語、『西遊記』を鑑賞しました。会場は大盛り上がりで、周りでは「笑いながら、なぜか涙が出てくる」という人が多かったのです。それは、母親の病気をきっかけに始めた落語会で笑利さんが感じた「お客さんのためにという気持ちで、自分も楽しんで演じていた」という発言につながっていると思ったからです。
NSC(漫才)からスタートして、30歳から新たに落語に取り組むと、新たな笑いや楽しみを与えるチャンスが生まれるのかもしれません。新風を巻き起こしてほしいと思っています。「期待してまっせ~」
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。