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喜楽館公式サイトの連載「私が落語家になったワケ」も、おかげさまで10人の落語家さんに登場いただきました。
今回は、番外編として「この連載を始めたワケ」を皆さんに知っていただき、さらに関心を持っていただきたいと言う思いで、インタビューを始めたワケを書きました。
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2023年9月25日に、天満天神繁昌亭の舞台に立つことができた。
もちろん落語を披露したわけではなく、毎月25日にテーマを決めて開催されている「天神寄席」で、3人が話す鼎談の場に参加。テーマは「極楽隠居と定年地獄」。
拙著『定年後』(中公新書)が多くの人の手に取ってもらったので声がかかった。当日は、100人程度のお客さんが集まった。
大阪天満宮文化研究所所長の高島幸次先生と桂春若師匠のサポートを受けて、客席に笑ってもらえるという快感を覚えてしまった。、
月に1、2回程度、企業や役所、大学から講演を引き受けることがある。
元々、堅い雰囲気が苦手な私は、毎回面白くしようと意識している。しかし頭の先で話しているだけでは聞き手の細胞にまでは届かない。せっかく人前に立って話せる機会があるのだから、もっと笑いの要素を入れるか、もう一歩進んで独自の漫談をやれないかと検討を始めた。
漫談に関心を持ったのは、新開地にあった神戸松竹座の舞台で西条凡児さんの思い出があったからだ。
「今日出がけにこんなことがありました~」から始まって、話が膨らんで観客を惹きつける。
子ども心にも、この人は「すごいなぁ」と思っていた。彼への憧れもあって一度漫談をやってみようと考えた。
同年の11月に、パソコンを開くと、たまたま【輝く!シン・新開地スター誕生!】というサイトの「演芸や歌、『ステージに上がってみたい!』という方ご連絡お待ちしております!」とのフレーズが目に飛び込んできた。翌年の1月5日に、神戸新開地・喜楽館を借り切って開催するとのことだった。
生まれ育った地元にある喜楽館の舞台に漫談で立ちたいとの気持ちがわいてきた。プロでもアマでもOKだったので、その場で参加の意思表示をした。
本番までは1か月あまり。仕事の合間を縫って漫談の準備を始めた。
大阪府立上方演芸資料館「ワッハ上方」で西条凡児さんの漫談の音源を探したり、落語は参考になるかもと作家養成スクールの「落語作家養成講座」の説明会にも参加したりした。東京の神保町の漫才劇場や東京浅草のリトルシアター、大阪心斎橋の楽屋aなどで、できるだけ漫談の舞台を見るようにしていた。
またコミカルなシナリオ作成に挑戦しているKさんや、学生時代から演劇を続けているAさんの意見を聞きアドバイスを受けた。
喜楽館の漫談では、「ダボッ、しばいたろか」というキーワードをもとに、神戸には、灘区と中央区の間に、「ダボッ」を使うかどうかの分かれ目がある(「ダボライン」)という話材を神戸の地域性に絡めて展開した。漫談の原稿を書いて、正月返上でZOOMの画面に向かって何度も何度も練習を繰り返した。当初12分間あった原稿を持ち時間の8分にするために、文章を大幅に削った。それによって、シナリオが簡潔になって、自分の頭の中にも入ってきた。
最後のオチで会場から笑いが生じた時には本当に嬉しかった。
喜楽館の漫談の準備をしながらR-1グランプリ1回戦にもエントリーした。本番は、喜楽館の舞台が終わって、5日後の1/10と決まった。
12/30、1/4の両日に、先に実施された1回戦の予選を下見に行った。大阪市北区のカンテレ扇町スクエアの観客席で一人2分間のピン芸を合計100組ほど観た。各登壇者のメモを取っておいて、当日夜の合格発表とメモを照合してみた。合格者に赤丸をつけて、二人の審査員が合格と判断する基準を把握しようとしていた。R-1の右も左も分からなかったので、まずは審査基準を知ることが第一歩だと考えたからだ。
本番当日は、ほぼ全員が若い人だった。私のネタは「定年退職者を探せ!」だったが、会場との雰囲気とはマッチせずに、「とにかく面白いピン芸」という審査基準にも適合していないことを感じた。R-1グランプリであえなく敗退した時に、自分が演者になるのは無理だと痛感した。
当然ながらプロやプロを本気で目指す人にはとても敵わないのである。
丁度その頃に、光栄なことに神戸新開地・喜楽館からアンバサダーを任命された。
私にとっては生まれて育った地元であるし、当時は筋向いにあった神戸松竹座で演芸を楽しんだ立場としては願ってもないことだった。
演芸は昔から好きだったが、R-1グランプリで、演者としては力量がないことは明確になった。あらためて私に何ができるかを考えてみた。
以前から気になっていたのは、演者はどうして落語家の道を選んだのかということだった。私の関心は落語の噺自体よりも演者の生き方に関心がある。
落語家になった理由は、落語のマクラでは時々取り上げられるが、私と同様に関心がある人は少なくないのではないか。興味を持った落語家本人のことは名鑑などで確認するが、その人が落語家になった背景や理由を知っていれば、その人となりがより深く分かるだろう。
同時に私は会社員から異なる仕事に転身した人たちをインタビューして修士論文を書いて、書籍も何冊か出版しているので、その経験も活かせるかもしれない。
そこで「私が落語家になったワケ」という連載を喜楽館のHPで始めることを提案して承諾してもらった。一旦演者としての立場を検討したからこそ作成できた企画案だった。
協力いただいた落語家さんや喜楽館のPRになって、かつ落語好きのファンを広げることにつなげていきたい。私自身の地元への貢献活動になればこれほど嬉しいことはない。
まだまだ手探りであるが、落語家になるまでの経緯の話を聞くのは興味深い。
若い人と話すと私自身が元気になるという実感もある。これからも続けていきたいと考えている。
今まで、お話をお聞きした10人の落語家さんのうち3人が桂ざこば師匠の噺を聴いたことが落語家になったきっかけになっています。
師匠は2024年6月に亡くなられましたが、人情味あふれる芸風で人気を集めただけでなく、演じた落語そのものでも後進を育てていたのです。
あらためて存在の大きさに感じ入りました。
<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。