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2024/10/07

第十回 「介護会社のサラリーマンから落語家へ」<桂 八十助インタビュー>

執筆家の楠木新さんがインタビュアーとして、
噺家の皆様に「落語家になったワケ」をお聞きした読み物になります。

第十回は桂 八十助さんです!
人生の中で落語家になった転機をインタビュー。
ビジネスマンなどにセカンドキャリアのご参考になるかも…?!

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「介護会社のサラリーマンから落語家へ」
(桂 八十助のインタビュー)

 

芸名 ​桂 八十助(かつらやそすけ)
本名 東 虹樹(ひがし こうき)
生年月日 1986年11月20日
出身地 兵庫県西宮市
入門年月日 2021年3月5日 師匠「桂八十八」
公式X https://x.com/8yasosuke8

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15年間老人ホームを運営する会社で働いた

介護付き有料老人ホームなどを運営する会社に15年間勤めた後に落語家になった。

20歳で現場の介護職として入社したが、人手が足りなかったので1年余りでグループリーダーになった。それから7~8年は有料老人ホームで仕事をして、その後はデイサービスと訪問介護を担当する組織で管理職を務めた。介護福祉士とケアマネージャーの資格を持っている。

私の場合は、介護の仕事にやりがいがあるとか、自分に合っているというよりも、組織で働くことに意味を見出していた。若い頃は自分がどれくらいの仕事ができるかがポイントだったが、年次を経ると部下や後輩と一緒に働きながら目標を達成することや、彼らの成長を見守ることにやりがいを感じていた。

会社は介護関係の研修のみならず、個人の自己研鑽にも力を入れていた。経営や人財育成についても多くを学ばせてもらった。それらは自分の考え方のべースにもなっている。特に、会社から青年塾に参加させてもらって、他社の10人のメンバーとの情報交換や付き合いで大いに刺激を受けていた。

このまま働くことでよいのか?

働き始める時に目標にしていたキャプテン (部長職)になることもできて、コロナ禍でも部署のメンバーに支えられて好業績を達成できた。仕事では一段落した感じだった。

その頃に、前述の青年塾で苦楽を共にした仲間の一人と、コロナ禍で部下のドライバーさんが相次いで亡くなった。それがきっかけで、死ぬ時に悔いを残さないために、せっかく生まれてきたのだから自分が本当にやりたいことに取り組もうと考えた。社内でさらに高い役職を目指すのか、他の仕事に進むのか迷っていた時に、落語家への道が頭に浮かんできた。

働き始めるまでは、落語とは何の縁もなかったが、20代半ばに、会社で落語家を招いて噺を聴く機会があった。日常のストレスから解放される感覚があって興味をもった。また落語自体も面白いと感じたので、老人ホームのイベントで高座を作って着物姿で落語を演じたこともある。入居者は喜んでくれるが、もちろん寄席の雰囲気には遠く及ばない。「奥が深いなぁ」と落語の難しさを痛感した。その後は仕事が忙しくなって中断していた。

YouTubeで米朝一門ばかりが現れる

新しい道に進むといっても、いきなり会社を辞めることはできないので、入門する2年前くらいから師匠探しをすることになった。ただ仕事も忙しくて実際の寄席にはなかなか行くことはできなかった。

YouTube で繰り返し落語を見ていると、米朝師匠をはじめ米朝一門の落語家が次々と画面に現れるようになる。AIが私の興味のある落語を提示していたのだろう。たまたま桂八十八師匠の落語「ぬの字鼠」を聴いたときに、所作がきれいで、良く通る声が魅力的だった。この人だったら一回ナマで見てみようと思った。

2020年夏に開催されたサンケイホールブリーゼでの米朝一門会で、初めて八十八師匠の「足上り」を聴いた。「いいな」と思い、その後の高槻での落語会で、師匠の怪談噺「市川堤」を聴いた後に、楽屋で履歴書だけをお渡しした。師匠はお忙しい様子だったからだ。

次に動楽亭で、対面して弟子入りをお願いしたが、「とるつもりはない」という返答だった。「いろいろな落語も聴いておきなさい」と言われて他の一門の落語会にも足を運んだ。

師匠からも聞かれたが、私は本職の仕事として落語家をやるつもりだったので、働きながらの社会人落語家には魅力を感じなかった。

34歳で弟子入り

その後は、八十八師匠の落語会には必ず足を運んで客席から勉強させてもらっていた。「いろいろな落語会に行きましたか?」と師匠から聞かれて「はい。やはりぜひとも師匠にお願いしたい」とのやり取りがあって認めていただいた。初めに訪問してから半年くらい経っていた。私は年齢がいっていたのと、それまで落語を本格的にやっていないので師匠は悩まれたのかもしれない。

2021年3月には、正式に弟子として名前・八十助をいただいた。年明けにはすでに稽古をつけてもらっていた。私が34歳の時である。「やった!!」と大喜びするキャラではないが、本当に嬉しかった。弟子入りをお願いしている時には、すでに会社には退職の意思表示をしていた。弟子入りが叶わなければ別の仕事を探すつもりだった。

サラリーマン当時は、かなりの年収があったが、収入が減れば、それに応じた生活をすればよいと割り切っていた。現在は、前職の会社からの依頼で、夜勤の介護の仕事をやっている。これはお金だけではなく、現場で働くという感覚を忘れたくないためでもある。

弟子生活には全く不満なし

弟子生活は丸3年。2024年3月に年季が明けた。ずっと通い弟子で、月の半分くらいは師匠の仕事に同行するか、お稽古などで師匠についていた。

落語という好きなことに取り組んでいるので気分的な豊かさがある。会社員では経験できないことを学べて、落語を演じる15分間は、もちろんお客さんのための時間であるが、同時に自分をきちんと見てもらえる機会でもある。こんなありがたいことはない。サラリ―マン当時の知人から、「元の仕事に戻る気はないの?」と聞かれることがあるが、「全くない(笑)」と答えている。

噺家の世界は、当初、理不尽なことが多いかもしれないと思っていた。しかし皆さん優しいし、間違っていることはきちんと指摘してくれる。授業料をとるわけでもなく、落語のお稽古をつけていただける。そのうえ「前座で出てよ」と仕事をくれることもある。面倒見がよく、愛情深いコミュニティだと感じている。こういった人間関係が一般社会にもっと広がれば、多くの人が働きやすくなるだろう。

これからの抱負といっても、私は大言壮語できるタイプではない。未知の現場や新しい体験をどんどん増やして経験値を積んでいきたい。NHK新人落語大賞や、各種グランプリにも挑戦していくつもりだ。また自身の勉強会を通じて、他の人がやらない演目や新作落語にもチャレンジして芸の幅を広げていきたい。

こうした活動を通して、きれいな芸風で上品な八十八師匠の雰囲気をまとえる落語家になりたい。師匠に近づくことが私の目標です。
(7/16 神戸新開地の喜楽館にて)

*「取材を終えて」(楠木新)

桂八十助さんが、高座のマクラで、「長く介護の仕事をしていて資格も持っています。介護のご相談のある方は、後ほど承ります」と話すと高齢者の多い会場が沸きました。過去の経歴もネタになることを実感しました。

インタビューでは、一つ一つの質問に丁寧にかつ真摯に答えてもらいました。翌々週の7/29(月)の喜楽館の~納涼ウイーク~で、桂八十八師匠の「怪談噺 市川堤」を堪能しました。八十助さんが師匠に憧れたことが理解できた気がしました。目をつぶって聴いていると米朝師匠が頭に浮かんできました。雰囲気が似ていると感じたのです。

八十助さんの話で一番印象に残ったのは、噺家の世界は面倒見が良くて、愛情深いコミュニティだと感じている点でした。落語家という個人事業主として自律的、主体的に働くことによって、互いを思いやる気持ちが強くなるのかもしれません。会社員と並行して著述業に取り組んでいた時に、私も同様なことを感じたことがあります。

いずれにしても、サラリーマンの経験も活かしながら、八十助さんが落語家として益々活躍されることを「期待してまっせ!」。

<楠木新(クスノキアラタ)>
1954年神戸新開地界隈で生まれる。
大学卒業後、日本生命に入社。
50歳から勤務の傍ら、取材、執筆、講演活動に取り組む。
2015年定年退職。
2018年~2022年神戸松蔭女子学院大学教授。
25万部超のベストセラーになった『定年後』をはじめ著書多数。

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